どの私
ラマナ・マハリシもラーマクリシュナも同じように言う
「神だけが行為しています」「行為者は神です」と
「神が“私は自由意志を持っていて、私が行為していると錯覚している自我”を使って演じておられます」と
わたし自身、私のこの意識そのもの、私のこの今の考えていること、この恐れ、この思考、この記憶、この表象、この私という自我の起こしている悲しみと、傲慢と、恐れ、愛のなさ等々そしてこの私の過去現在未來・・・これこそが根源による御マーヤ、御幻想、聖なる起こっていることに他ならないということなのだろうか。
そしてこのことをクリシュナムルティーは以下の様に語っている
「すなわち、あなたが「今あるもの(恐怖や孤独など)」に進んで直面するとき、そのとき、それは終わります。なぜならそれは完全に変化するからです。
それはもはやそれら(恐怖や孤独など)ではありません。
なぜなら、あなたが「今あるもの・現に存在するもの」を理解するなら、そのとき「今あるもの」は真実(実在)のものだからです。
心は「今あるもの」を見ることを避けるため、みずから様々な障害物を作り出します。そして「今あるもの」を決して理解しようとせず、現実から逃げ続けます。しかし、あなたが「今あるもの」を直接に見るとき、どんな風にそれが変化するのか知るでしょう。
・・・・この空虚さから離れようとするいかなる動きも逃避です。
そして、この何かから逃げ出すこと、「あるがままのもの」から離れようとすることこそが恐怖なのです。「あるがままのもの」から逃げ出そうとすることが恐怖なのです。「あるがままのもの」に恐怖があるのではありません。
恐怖とは、逃げ出そうとすることなのです。」
しかし心である私達現在のパーソナリティーはこの内面を直視することをせず逃避しようとして心を用いてさらに、これらに対する反応物(エレメンタル・想念形態)を生み出す、さらなる想念が、心による創作物が霊魂の個別的な現在のパーソナリティーから生み出されている。
この現在のパーソナリティーの‘自分はこの肉体であり、この自我だと思いこんでいる「私と言う観念」’に覆われている現在のパーソナリティーである心が2次的エレメンタルと言われているものを更に生み出しているのではあるまいか。
平たく言うならば現在のパーソナリティーが私自身を「私と言う観念」と取り違え、私ではないものを私と思い間違えてしまい、自身が誰なのかを忘却しているからである。故にラマナ・マハリシなどによってあなたは身体ではない、あなたは思考ではない、あなたは心ではない、あなたは「私は○○です」ではなく、あなたは実在として「在る」のであると言われている。
起こっていることとは、「私と言う観念」である自我の私も、それを自分だと錯覚するこの現在のパーソナリティーの私も含め「根源」の中にあり、「根源」ご自身であるといえるのではないだろうか。
この「私」という他と分離しているという実体感覚、私というありありとした個人の五感、そしてその知覚、そのように実感しているのは「私と言う観念」であり、それこそが御マーヤ、御錯覚、御幻覚ではないだろうか、そしてそれがこの宇宙なのではないか、それこそが多次元の平行宇宙なのだろうか。・・・だがしかし自由への鍵というものはこのマーヤにこそあると言われているのだ。そしてこの根源へと至ったとき「世界は私である」という実感に変わるのであるといわれる。この自由への鍵はクリシュナムルティーによってもこのようにいわれている。
「心は何もする事が出来ない
この真実を見ることが心が為す唯一価値のあることだ」と
これは「心は行為に関わっていない」と言うことではないか
心は「自分は肉体だと思い込んでいる」ので、行為とは純粋精神が為しているのに自分が行為していると錯覚してしまうのだと
行為の後に行為していると心は知覚するのだが、この心とは私達人類の現在意識なので私達人類にはこれは理解することはできない。(知識としての記憶は理解ではない)理解出来るのは純粋意識と繋がった「変容した心」だけであろう
このわたし自身も、即ちこの私というありありとした個人の現在のパーソナリティーそのものも心と同化してしまっており、私と言う観念の「他と分離している私という感覚」は根深く個別的霊魂を覆っているものであると言えるのではないか。
もしこの根本無明(私と言う観念)を照見できれば・・・・個別的私・・これは聖なる幻想なのではないだろうか。本当はあなたと別々のわたしとは存在していないのではないだろうか。それは聖なる幻覚なのではないか。この幻覚の上で私達は悟ろうとし、競争し、支配しようとし、救おうとしているのだ・・との理解が起こるかもしれない。
私という個別的な実体感覚、そしてこの個別的知覚とは聖なる嘘なのだ、聖なる虚偽なのである。‘通常感覚の私’とは全体から分離している私のことであり、それは聖なる「幻覚」そのものであり、究極的にはその「幻覚」さえも存在していないのであると言われているからである。
この「個別的私」という実体感覚とは「根源」が起こしておられるマーヤ「私と言う観念」そのものの実体感覚なのであろうか。
何故ならよく観察すれば分かる事だが・・行為は神が起こしており、肉体は神のものであり、精妙体も神のものであり、脳も神のものであり、神経も神のものであり、筋肉も骨も臓器も、ニューロンも、意識も、自我も、生命も神のものである。
更に言えば身体を自分のものだと思っている「私と言う観念」さえもが神からであり、その「私と言う観念」を自分だと見誤っている個別的現在のパーソナリティーも神のものであり。現在のパーソナリティーの元である魂も神のものである・・と極論できる。
この思考も神のものであり、この意識も神のものであり、憎悪や喜びも神のもの、恐怖も喜びも神のもの、わたしは神のもの、あなたも神のもの、いや神ご自身といえるのではないか・・と。
このことでクリシュナムルティーはいう
「現に存在するもの、あるがままのもの」が真実である訳ではありません。しかし、「現にあるもの」を理解することが真実への扉を開きます。
あなたが実際に、現に存在するものを、ありのままのあなたを、
あなたのハートで、あなたの頭脳で、あなたの感情で理解するならば
一体どこに「個別の私という神と分離している魂」がいるとでも言うのか?
一体どこに神から分離しているものが存在しているのであろうか?
一体どこに根源と分離している私やあなたがいるというのであろうかといわれている。
だからこの上記のことを観念でではなくて本当に中核から見切ったとき、分離は姿を消し、本来本然のものが姿を現し、完全完璧しか存在していなかったということが領解されるといわれているのだと。
「私という観念」である自我の私、そしてその私を自己だと見誤ってしまっているこの個別的現在のパーソナリティーの私も含め、個別的な統覚知覚機能自体、私とは本当は聖なる虚構だからではないのか。
クリシュナムルティーによって見なさいと言われている私とは、即ち私という「統覚知覚機能である個別的現在のパーソナリティー」のことであり、この私が「私と言う観念の私」を自分だと錯覚しているに過ぎないのだと。
すなわちこの個別的現在のパーソナリティーの私は「私と言う観念である自我の実体感覚」を自分の実感だと錯覚しているのだ。
何故ならこの統覚知覚機能である現在のパーソナリティーの私は肉体脳や諸体の脳と結合しているので五感や六感や七感を、自分の感覚・知覚だと思い込むのである。
さらにその上に、「私と言う観念」が統覚知覚機能である現在のパーソナリティーを厚く覆っているので、「自分があたかも身体で、なおかつ自分が行為しているのかのように思っている」自我という「私という観念」のことを自分と取り違えてしまうのではないか。
この自我の実体感覚こそ「根源」のマーヤによって引きおこされており、その御幻覚に他ならない。
さらには個別的現在のパーソナリティーさえもが神・マーヤから生み出された御幻覚であり、御錯覚であるともいえるのではないだろうか。
この個別的現在のパーソナリティーとは「根源」がお造りになっているマーヤのシステムの一部なのではないか。
各段階の私を含めて、意識的自己とは「根源」であるマーヤの一部なのであろう、現在意識のあなたも私もちろんそうであるに違いないことだろう。
その聖なるマーヤ・・それがこの現在ただいまの私であり、こうして書いているわたし自身であり、その中身であるところの「私と言う観念」であり、知覚であり、実体感覚である。
それがこの現在ただいまの意識となってしまっている。
この頭に浮かんでいる考えや思いの殆どは「私と言う観念」のものに他ならない。この現在ただいまの私の実体感覚とは個別的霊魂や個別的現在のパーソナリティーの実感ではなくて現在のパーソナリティーを覆っている自我の実感、即ち「私と言う観念」のものである実感なのではあるまいか。
だから、この考え、私が述べているこの「考え」こそ、「根源」が起こしている御幻覚であり、御錯覚に過ぎないといえることだろう。何故ならこれは、如何に真実のように思えても単なる思考であり、分離している二元のこころであり、決して実際の理解や直解ではないから、純粋意識ではないからであるといえる、私が述べているこれらは単なる論理であり実際の直覚ではないからだ。
この現在の私の意識とは意識ではない。何故ならこれは明らかに思考であり、観念であり、感覚であり、「私という観念」から流れてきている心そのものであるからである。だから現在のこの自己の意識とは、正確には個別的魂からの意識ではなく、まして真の私の純粋意識ではなくて、「私と言う観念」の想念であることだろう。
わたし自身が虚像であるのと同じく、この私が起こしている考えも、知覚も「私と言う観念」からの観念、思考、思いに過ぎないのではないか。この想念は虚像なのである。
この知覚されている心とは真実の意識ではないということだろう。ラマナ・マハリシは思考や想念のすべてが「私という観念」から起こっており、魂の内奥は決して言語や思考ではなくて、魂の私は、思考ではないので話したり語ったりせず、思ったりすることはないと言っている。
従ってこの現在ただいまの意識と思われている意識とは到底意識と呼べるようなものではなくて、記憶や思考や観念という「私という観念」から引き起こされた被2次製作物であるエレメンタル、想念であろう。何故ならこれらの「意識もどき」は対象として分離して自他を知覚認識しており、時間や空間によって引き裂かれたりしている分け隔てのある思考、即ち「意識ではない意識もどき」であるからである。
それゆえに私達はこの神の聖なるマーヤの中に、この虚偽の意識の底辺へ、幻想の中枢へ、神からの「私と言う観念」の中へと、幻想と幻覚である聖なる嘘の中に直に沈黙して参入しなければならないのではないだろうか。それは即ち参入しようとする「私である心」が自身の心の奥底へと入っていくのであるといえようか。
そしてそれはラーマクリシュナがいうように「海を見に行った自我という塩人形が海の波によって溶け去る」ように、真我の海へと溶解していくことなのだろうか