この心の中にこそ解放が起こる
ラマナ・マハリシは言う、
「心が、絶えずその本性を識別し探究すると、心というものはない、ということ
が知られるようになる。」
心というものはないと言うことを知るのは、心それ自身であり、変容・変性した心であると言う。
心が自らの心の本性、心の構造を探求した結果、こころ自らが変容して真の私(真我)となったの
であり、
その心が透明化して(純粋化した意識となって)変容することが起こったのであると。
泥水が静かになり沈黙した結果、水本来の透明な姿となり月が映し出されたともいえようか。
そしてその心が純粋化した結果、心によって「心はない」と言うことが知られるのであると。
心の可能性というものをここでラマナ・マハリシは述べているのだ。
心が正しい自己観察を続けることによって心が変容することが出来るのである。
心は純粋になることができるし、真の私を映し出すことが出来るのであるという。
心には自身が存在していないということを知ることができる可能性があるのである。
正しい「個人的ではない自己観察」、正しい自己観照を続け、心の本性というものを心が識別し探求
することによって、心が静かになり、沈黙し、この探求している心自体が、心は存在していないとい
う事の理解にいたり、
そのことを理解している心がそのとき変容して真の私である純粋意識になっていると言うことなのである。
クリシュナムルティーの自己観察も自己を観察し、心を観察しているその心による自己観察の中に
おいて心みずからが透明になっていき、その観察している心そのものが浄化され、透明化され、
万人共有の自我という心「私と言う観念」が終焉を迎えることの可能性が示されている。
それは平たく言えば
心自身が心というものを「心を動かさず」に観照することによって泥水だった心が解消し、心本来の
面目、即ち真の私の純粋意識がその純粋になった心に顕現されてくると言うことなのである。
外へ向けられた心は、想念と対象物に帰着するが、内に向けられた心はそれ自らで、
真我になる
ここで心は可塑性に富み、こころとは対象物と一体化するという傾向があることを示されている。
それゆえに心のあり方が問題となってくるのではないか
心即ち私と言う観念が、自我が、自己が、幸福を求めたり、自他を非難したり、逃避したり、判断したり、
自己中心性に捕らわれたり、自己関心に陥ったり、肉体と同一視したりするのではなくて即ちそれら心
自体の働きと一つになったりするのではなくて、それらの心の働きを観照し、その心の奥に更に入るとき
心が心みずからの根底であり魂の内奥である内側を見る、すなわち言葉や知覚を超えた最内奥の内側
に注意を向けるようになることができるまで心が成熟したとき
この状態であるとき心は自らの内側を見ているといえる。そのとき心が変容することが訪れるという。
心の働きを起こしているこころが自ら、みずから自身即ち心を観照することで心が透明化し、心そのもの
が変容し真の私と一つになるという奇跡が起こると言うことを述べている。
それは即ち心とは神が作られたものであり、心が変容することが可能なのはそれは神からの道具だから
である。
心が自らの根底に行き着いたとき心が変容して純粋意識となり、顕現するのであるということではないか。
これは別のところでラマナ・マハリシが私と言う観念の根源に至ったときそれは神に触れたということであ
るといっているのと同じである
身体が通り抜ける全ての行動は、それが生まれたときに決定されているのである。
身体はプラーラプダによって宿命づけられた、避けることの出来ない行為を通り抜けてい
くことだろう。
人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、
あるいは
身体の活動の単なる目撃者となるかという選択の自由だけをもっているのである。
唯一あなたに与えられた自由とは、心を内面へと向け、そこで活動を放棄することだけである。
人が出来る唯一の自由とは努力をしてジニャーナを得ることである。
それが彼と身体との同一化を絶ちきる
心が制御されたとき、呼吸も自動的に制御される。呼吸の制御をする必要はない。
あなたは身体ではない、それ故、あなたはカルタ(行為者)ではない。
心が制御されたとき、呼吸も自動的に制御される。呼吸の制御をする必要はない。
あなたは身体ではない、それ故、あなたはカルタ(行為者)ではない。
心を制御するとは、心である自我が自我自身に捕らわれて何かに成ろう、何かを獲得しようとして努力し
たり、呼吸や思考を制御することではない。
心を制御するとは、根源によって起こっている行為という映像から離れ
心がこころみずからを判断なく、非難なく、評価なく、逃避なく、言葉なく、動くことなく同一
化することなく、この心に留まり、このこころでこころ自体を観照することであると言っているのである。
その観照こそが私達に与えられている唯一の自由ではないだろうか
これこそがクリシュナムルティーの言う「既知からの自由」がもたらされる唯一の条件ではないだろうか。