練習



クリシュナムルティーはいう

「考えることなくして見ること、考えることなくして在ること」即ち観照とは練習

できるし、練習すべきだと


心を心として見て、心に巻き込まれずにただ見ること。ただ在ること。

言葉を発することなく、考えたりイメージすることなく受動的に静寂の中から

ただ見ること。

あるがままを、起こっていることから逃避することなく、判断することなく受動的に

観照すること。


こころや言葉をつかわず考えることなくただ在ること。ただ見ること。じかに見ること。

こころや言葉や自我や記憶や知覚に同一化することなくただ在りなさいと。

心や思考なくして見る事、在ること。思考をただ思考としてみることは可能であり

決して不可能ではない。見ること、観照する事それは練習すべきことがらだという。

それは確かに難しいし、初めは大変であろう、けれども私達には可能性があるしできる事

なのだと。


その見ることの実践の中にその「見ること」が次元を超えて身体から

限りなき空間へと拡がっていることの気づきが顕れることだろうと・・。

この「私と言う観念」に覆われていても、私達は観念ではなく、脳ではなく、心ではなく

身体ではなく、自我ではなく、既知なるものではなく、普遍であり限りなき拡がり

である純粋なる意識であり未知なるものなのだと、ただ心に覆われているにすぎないのだと


思考、考えることとは、その内容を問わず「私と言う観念」から起こっているのである。

その心からは必然的に「私は特別なのだ」「私は他人とは異なっている」「私は他人

とは別人だ」「私は身体だ」「私は行為している」「私はあなたとは異なっている」と

いう実感が起こっており、人類全員が同じようにそのことを共有し実感している。

というのも、それは共通で同一の「私と言う観念」が起こしている錯覚であるからだ。

そして、この「私と言う観念」が見ているのがこの知覚されている内部と外部だと。


なぜならそれは人類全員の自我とは全員が同じ「私と言う観念」に他ならないからである。

何故、全員が同じように感じ、同じように考え思っているのだろうか?

それは全員が同じ「私と言う観念」であるだからだといえよう。


また、その「私と言う観念」である限り、見ている対象を自分とは異なっているもの

自分ではないもの、自分自身ではないものと実感しているし錯覚している。

見られている不安恐怖とは、見ている私即ち不安恐怖なのにだ。自我を観察しているのは

自我なのにだ。すなわち自我とは心の働きに他ならない。


それは心即ち「私と言う観念」がこの脳を通じて働いていると言うことなのではな

いか、若しくは脳がそのようにこの観念を受け入れるように条件付けられている

と言うことではないのか

翻って、もしその心である「私と言う観念」が沈黙していれば、どのように見えてい

るのだろうか?

賢者達はそこには自他の分離はなく「見るものは見られるものである」であり

「観察者は観察されているもの」であり、自己は他己であり、私はあなただという。

決して自他の分離や見る者と見られるものの分離はないという。一つだという。


そのことが指し示しているのは、「自己本来の面目」とは普遍なる純粋意識だと

いうことであろう。


クリシュナムルティーは繰り返し繰り返し「既知からの自由」を強調している。

ということは私達人類は現在のことろ、既知である心によって覆われているた

めに私達には自由というものはないと言うことを彼は言っているのだ。


既知なるものとは心であり、「私と言う観念」であり、「行為は自分が為していて

自分が生きているのだ」と言う錯覚である。それが自由を覆い隠しているのだろう。

行為の体感、その知覚、分離している自己の自覚、そしてその自己意識こそが心と

いう「私と言う観念」であり、マーヤから起こっている分離なのではないだろうか。


考えることによる理解、思考による理解、観念や知識での理解、本や人から得た理解

情報からの理解、言葉による理解、心による理解、記憶が関与している理解とはまった

くもって理解ではなく、それは誤解であると彼は言う。


心が関与している限り「私と言う観念」に覆われており、必ずそれは二元分離の私

「私のもの」、「私が」という実感である錯覚に覆われている。故にその実感とは

誤解なのであると。

だから上記のこれらのことがらの理解でさえも知識や頭で理解することとは

理解ではなくて誤解にすぎないのである・・と彼は言う。

未知なるものは既知なるものの領域にはない。これらは知識・知ることの範囲に

はない。

既知なるものからの自由があるときにのみ理解が起こる。と

または既知なるものとは自由ではないことを本当に理解したとき、はじめからあった

自由がそこにあると。


だからこそ日常生活の中で、考える事なく、言葉を使うことなく、観念や

記憶や知識を使うことなく、記憶である心象や具象や記憶の反応に巻き込まれ

ることなくあるがままを観照しなさい、唯見なさい、ただ在りなさい。と


思考や心に巻き込まれることなく、思考や心というものの構造を直に見なさい!

そのときその見ているものは見られている心であることが判明されると

それは初めは大変かもしれないけれども出来るのだ!だから練習しなさい!

心を使わず沈黙の中で練習しなさい!

それは練習すれば必ず出来る様になる!

と言われるのである。

私達はいかように「私という観念」に覆われ、自我に囲まれていても、ごく僅かで

あっても「心という既知」から脱出する自由の可能性があるのだ。

私達は決して肉体でもなく、「私という観念」でもなく、自我でもないからだ。
 
私達は肉体を私と思い込み、私という観念を私と思い込み、自我を私と思い込んで

いるけれども本当は普遍で純粋で一つの意識なのだ。












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