関係性という鏡
関係性という鏡によって意識的自己・自我は映し出されている。
意識的自己または自我すなわち現在のパーソナリティーとは
関係性という鏡によって映し出されている。
わかりやすく言えば自分の眼の前にいるその人の心とは自分の心を
表しているということなのである。
他者とは、又は起こっている事とは関係性という鏡に映し出されている
意識的自己である自分自身の心の姿である。
この鏡・関係性に現在のパーソナリティー、私・自我、即ちこの意識的自己が
映し出されているのだ。自己が消滅したあかつきには関係性も消滅することだろうが
対象があり、相手の心の奥深くに一緒にいることが充分に為されず相手のことを自分自身
と全く同じように知覚されていない段階では関係性・鏡が自己認識の重要な鍵となるのだ。
自我を最早見つけることが出来ず、自他の分離が無くなった段階に至るには、この関係性
の鏡を通じての自己認識が最重要なワークであり、自己を観照することが私達に与えられた
最重要で緊急なワークなのだ。
ではこの関係性という鏡には何が映し出されているのか?
それは内部においては、知覚されている思考や欲望や感情や恐怖であり、そして外部に
おいては他者の心であり、環境であり、家庭であり、会社であり、起こっている出来事である。
それらに現在のパーソナリティーの状態が映し出されているのである。静寂がないのは
正しい自己観察がされていない証拠である。
従って現在のパーソナリティーによって知覚さている内部と外部とは自分自身そのものでもある。
内部に知覚されているのは現在のパーソナリティーの心であり、それを知覚しているものも現在
のパーソナリティーだ。自我という観察者が自らを対象として観察しているのだ。意識の座に去
来しているのは自我の心だ。
内部と外部の両方に自分である自我が映し出されているのだ。
内部に起こっている思考も感情も欲望も観念も現在のパーソナリティーとは無関係でやってきてい
るのではなくて、知覚されているのは私自身という意識的自己であり、その思考であり欲望であり、
その自我なのだ。自我という心なのだ。知覚している私とはその知覚されている自他の私だ。
私の目の前のあなたとは自分の心なのだ。目の前のあなたの心は私の心なのだ。内部も
外部も自我のあるがままの姿である。
私達はこの映し出されている関係性という鏡を通じて意識的自己を知る事が出来るし、知らされる
のである。相手が悪いのではなくて相手の心に自分の心が写っているのであり、いままでにその
心を非難無く愛情を持って一緒にいることがなかったので、こうして相手の心として自分の前に
己の姿が映し出されているのだ。その嫌な相手とはわたし自身なのだ。
ではこの私、意識的自己・現在のパーソナリティーとは誰か?
それはこの意識的自己を観察している私であり、それは同時に内部と外部であるものを知覚して
いる意識的自己だ。それは心なのだ。この心とは自分の心も他人の心も同じ構造であり同じ大きな
私という観念の心なのだ。その同じ心が全人類に同じような苦しみと葛藤を喜びと感動をそして
自我というものを生み出し知覚し経験している。
これは一見すると矛盾し、堂々巡りをしているように見受けられるが決してそうではない。
これらの関係性の鏡に去来していることを観照している意識があり、それが意識的自己では
ない「気づき」なのである。「気づき」が意識的自己を観照しているのである。
この心というものを非難なく、同一化なく、逃避なく、心なくしてみているものが「気づき」といわれて
いるものなのではないか。
だがこの未知なる私は関係性がある段階では現在のパーソナリティーには顕れていない
現在のパーソナリティーに未だ沈黙がないので、その観照している「気づき」が顕れてはいない
のだ。
この内部であり外部である現在のパーソナリティー・意識的自己
そして内部と外部を観察している意識的自己・心
この意識的自己の持っている動機・目的、奥底に隠れている不安と欲望と恐怖・支配欲、
この現在のパーソナリティーの実際段階の姿
これらのあるがままの自己を映し出しているのが他人の心であり、内部で自身によって知覚さ
れている思考と感情と欲望と想念である。欲望を見ているのは欲望である私なのだ。
欲望が欲望を意識している。自我が自我を意識している。この自意識こそ自我なのだ。
「私と言う観念」なのだ。
この内部に去来し知覚されている思考や観念や感情や欲望などの知覚内容のすべてが
動機と目的を持った心であり、そしてその裏側の欲望と恐怖の「私という観念」である。
そしてその心が現在のパーソナリティーのあるがままの姿ではないだろうか
これらを観察している意識的自己・現在のパーソナリティーこそ観察されている思考と感情だ
この意識的自己こそ内部と外部に映し出されている思考、感情、欲望、想念、動機、目的である。
ゆえにだからして、この観察者と「観察されているものである意識内容」とを同時に「観照する
こと」が自分が行為していると知覚している現在のパーソナリティー・意識的自己としての正
しいあり方でないだろうか
鏡を通じて自己の心を受容しあるがままを見るのだ。その自己と他己の心を感じ、自他の苦し
みを感じ、不安と恐怖を共に味わい、自他の自我と一緒にいるのだ、そのようにして自己と他
己を分けられないものとして同時に観照することが可能となるのだ。
それらの内部と外部であるもの、観察者と観察されるもの、即ち両者である意識的自己即ち
「私という観念」の心を観照するのだ。
このあるがままを観照することで心は静まってくるのだ。そして沈黙するのだ。観照し、観照され
ることで意識的自己が沈黙してくるのだ。そして意識的自己の奥に隠れていた「気づき」が露わ
になる
これこそが八正道の一つではないだろうか
これこそ「自分が行為していると錯覚する自我・現在のパーソナリティー」にとっての正しい
あり方ではないか
内部と外部に起きている事、やってきている事のすべてを受け入れ受容し、全託すること、
観照すること
良いことも良くないことも受容し、全託し、観照すること。
御心のなるが如くにならしめ給えと全託すること。
この受容である全託、そして内部と外部のあるがままを観照する事、このことが秩序をもたらすと
クリシュナムルティーはいう。秩序とは静寂であり沈黙のことだと思われる。心があるべき所へ静ま
るのである。
全託と観照これが「意識的自己・現在のパーソナリティー・自我・記憶の私」の歩むべき正しい
道である
クリシュナムルティーが指し示しているのは、ここから先の道であるが
それはこの関係性の領域を無視して歩む事はできないし、ここを通過しなければ、その先の次元が
開示されることもない。
あるがままという関係性を超越している次元が開示されるのは
この関係性の次元からであり、それにはこの関係性の次元、分離次元での正しいあり方が要
求される。それこそが正しい自己観照である。
関係性を超越するには関係性を観照しなければならないのである。
自他の心を深く深く逃避することなく,自他の心と一緒に留まりそれを味わい尽くさなければなら
ないのである。
自我が自他の自我と一緒に留まり、自他の自我を味わい尽くさねばならないのである
それが思考なく見ることではないのか、それが自他の身心を脱落せしめることではないか。