誰もなにもしていない
(ある賢者からの教えより抜萃)
何かをしていると思う実感は錯覚である。
それは脳が生み出しているトリックである。
自分も誰も何も為していないし自分の行為も誰かの行為も起こっているのである。
この行為していると実感している私・記憶も行為と同様に生み出されている。
誰も何もしていない。ただ行為と出来事が思考と欲望と想念が起こっている。
為す事とは起きていること、行為とは「今」の次元からのことであるに対して
記憶の「自分が行為している」との実感は低位次元からの条件反応であるものだ。
行為は常に「未知なる今」であるに対して、反応は記憶という時間・過去からの
ものであるからだ。
本当は上位次元から起こることが起こり、為されることが為されているのである。
そしてこの下位次元の記憶の錯覚も脳の条件付けによって起こっていることである。
為す事、起こっていること、行為とは上位次元「今」からの投影であるに対して、
「行為していると思っている」記憶の反応とは、時間領域次元のマインドである脳
の条件付けられている反応であり次元が異なっているので記憶には理解不能なの
だということだ。
行為の根源は上位次元であり、記憶という下位次元からは条件付けら
れている反応が常に起きている、それが「自分が行為している」という錯覚だ。
それは記憶の反応なのである。各体の脳によって条件付けられている記憶
の反応なのである。
そしてまた同じように
記憶が見、知覚している対象や世界とは、その記憶自体の内容でもある。
記憶が知覚し、認識している対象とは記憶自身の内容を記憶が見ているので
あって
それは色眼鏡が色眼鏡の色のついた世界を見ているのと等しい。
記憶という色眼鏡が見ている世界は内部も外部も記憶によって歪曲されている。
この色眼鏡の色が内部と外部として色眼鏡によって知覚されているに過ぎない。
その色眼鏡の色とは記憶から生まれている錯覚なのである。
見られ知覚されている対象とは見られている対象ではなくて記憶そのものである。
他人の自我とは自分の自我を他人に見ているだけなのである。
嫌な相手は自分の自我が相手という鏡によって映し出されているのだ。
対象を見ているその記憶とは、その記憶によって見られている他人や出来事だ。
又記憶とはなろうとし、至ろうとする。それは自己から逃避しようとする記憶の条
件付けでもある。
記憶は自分がそうではないので、理想を作り上げ、自身から逃避しようとして、
じっとしておられず、静止し留まることが出来ないので正反対の状態を措定し
それに対して目的や目標や理念とかいう概念を生み出し、それに至ろうとするのだ。
記憶は、自分がそうではないので、だから、それになろうとするのだ。
真の私ではないので真の私に至ろうとし、それになろうと努力するのだ。
至ろうとして方法や手段を求め実践しているものとは「なっているもの」「すでに
あるもの」ではなくて、その反対物である思考であり、マインドである。
沈黙ではないので沈黙であろうとする。良くないので良くなろうとするのだ。
愛が無いので愛であろうとする。愛ではない自己意識なので自分は愛であると
錯覚し、真の私ではないので自分は真の私だと自意識する
気づきは気づきに気づいていないと言うことを理解出来ないのは思考だ。
ゆえに、その「自分は〜である」という自己意識こそ記憶に過ぎないのである。
自身で獲得した状態。マインドコントロールして得た結果はそれ自身の変形
であり、それはいかに素晴らしい意識状態に見えようとも「思考の領界内」にある。
自己意識が少しでも残っている限り、この記憶という思考の領域のもので
あって、決して「今」の次元領域のものではない。それらがいかに高次元の
ものに見えようともマインド次元のもの、マインドの脳の中にあるに過ぎない。
何かに成ろう、何かを為そうとすることは、何かを為す事や何かに成ろうとする
ことが出来ると考えている記憶の錯覚に基づいている。けれども実際には
あるがままがあるがままにあるのであり、あるがままがあるがままに起こる
のであり、なることもなく、為す事もなく、至ることもない。
全てはあるがままがあるがままに起こるように起こっている。
にもかかわらず記憶はそのことを反対に実感しており、脳のからくりによって
自分が生きており、自分が行為していると錯覚している。
実際にはなるようになり、起こるように起こり、出来事と行為は上位次元から
投影されている事柄なのに、記憶は自分が出来事を起こし、自分が行為して
いると思い込んでいるのだ
到達点を目指し、至るための方法や手段を実践しているものは記憶の反応
であり、記憶の条件付けられている反応である。
それが行き着くところは幻想であり、幻覚であり、脳の領域内に過ぎない。
方法を実践して真の私に近づくという肯定的接近とは真の私から即ち実在から
離れることだ、遠ざかる事である。脳の幻覚に留まることである。
何もしないこと、行為しているという錯覚から離れること、思考から離れること
思考である求めること、為そうとすること、到ろうとする事から離れ去り
あるがままをただみること
ただあること、マインドの無意識に陥らずに思考なく沈黙の中にあることが
あるがままをあるがままに心なく見ることがスタートなのではないだろうか
以上のことの理解がある場合は気づきが起こっているのであり
以上の事柄が単なる観念でしかなく知識でしかないばあいには、その実存状態は
理解していない状態となり、その場合は記憶である自我は相克状態・自己矛盾
状態に陥っていることであろう。