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個人は継続され続けている



私達の日常生活でよく観察してみれば、今までは私や
私のものであったと思われているところの生命や
呼吸も、血液の循環も、消化吸収排泄といった肉体や
諸身体のみならず、脳やDNAによる影響を受けた視覚や
聴覚や味覚などの五感覚、また欲望や思考や記憶や
能力なども、そして個人の基本である「私という自己
感覚」「行為」「意志」「欲望」「継続している記憶」「私と
言う観念」「私が起こしている出来事」そして「自己」である
私さえもが起こっていること乃至は発生してることである
ことが明白となるのではないだろうか。

「意志」も「判断」も「選択」も「行為」も「欲望」も生じている
ことがらであるそして
それら生み出している記憶である私も即ちこの個人と
いうものも生じていることがらであることが分かる。
欲望が起こったあとで欲望していると実感する意識的自己が
起こっているのであるといえる。行為の後で行為していると
実感している私・記憶の反応が生じている。従ってこれらから
私の「脳」や私の自己ではなく、脳が私を生み出し、「私と
言う観念」が自己という実感を生み出しているといえる。

私という個人や自我は「私と言う観念」のものであるのだ。

では私というこの「私と言う観念」が持つ自己感覚や自己意
識とは、どこから生じているのであろうか

この確個としているように見えていて万人が共有している
私という自己感覚・自己意識「私と言う観念」はどこから
発生しているのであろうか

この私という自己感覚であり、個人の意識とは勿論記憶
の作用であるが、その記憶そのものと記憶の作用をなら
しめているのはこの記憶の結果の私ではなくて、記憶機能
自体を生み出しこの記憶システムを機能させ支えている純
粋意識にほかならない。

その純粋意識から心が生じ、心から私と言う観念が生じ、
その私と言う観念がこの「他と分離した私」という実感をしている。
それが自我個人と呼ばれていて、肉体を私だと錯覚してい
るものであるといえるのではないだろうか。

そして通常の自己意識の内部とはこの私と言う観念の
内部なのだ。記憶の内面とはこの私と言う観念の内面である。


この「私と言う観念」の私と言う「記憶」がしている実感は
実感としては確かであるけれど、この実感は虚像であること
は明確である。この感覚この実感自体が虚偽に基づいてい
るからである。

なぜならば、どこを見渡しても純粋意識の生み出したものは
現実に存在しているけれども、私という私自身をも含め
私によって生み出されたものはなにもなく、「私は」「私の」
「私自身」もそしてこの自我も、個人も、私という実感も、知覚も
その記憶も、そしてこの記憶の反応も、行為も、そして私が
行為しているという錯覚すらも
未知なる純粋意識に拠って引きおこされ生じている事柄で
あるのではないだろうか
記憶である自我には自我は生み出せない。まして記憶は
生み出せず、分離は生み出せない。自我であるわたしは
記憶の結果生じている記憶の反応という自意識であるからだ。

自我も行為もそれらは正確に起こっていることがらである。
法則に従ってマインドが(心が)個人を生み出し続けている。
そして、その心の記憶が個人として継続され続けている。

この個人とは心・マインドの記憶であり、心によって生み
出されている「私と言う観念」のものであり、だから
心そのものともいえるのではないだろうか。

そして心は純粋精神から生み出されていると云われる。

これらの事は高次元から見た場合
統覚機能がそのマインドとそのマインドの記憶・意識的自己
を自分だと見誤ってしまったのであるということである。

統覚機能がその「心である私」のことを自分だと見誤っ
ているのである。

ではそのマインドとは何か、「私と言う観念」とはなにか

心もしくはマインドとは起こっていることでありそれは純粋
精神によって生起しているといわれている。

そしてその記憶であり個人という自我・私とは
起こっている出来事や起こっている行為と同じように
純粋精神によって生じている「自分が生きている」、「自分が
行為している」と実感している「起こされ継続させて」貰っている
「記憶」それ自体なのであろう。

この継続している意識的自己とは肉体や行為と同じように
起こっている心の記憶の反応のことなのである。
この個人自我とは肉体や肉体の行為と同じく純粋精神に
よって起こっていることなのである。

この広大無限なるシステムが純粋精神によって生じているので
あって、「他と分離している私・個人」とは、出来事や肉体や行為と
同様、純粋精神によって生み出され維持され継続されてい
るものであるといえるのではないか。


個人とは心であり、かつ心である「私と言う観念」の記憶なのだ
といわれている。
その「起こっている出来事」も
その「起こっている肉体」も
そして「起こっている行為」も
この意識的自己である私も
その起こっている「内部」と「外部」すべてのことと同様に
「私が行為している」という、実感をしている個人(記憶)は生み出
され、継続させられているということではないか。


個人とは「起こっている心」であるマインドの記憶であり
その反応なのであり、起こっていることなのであると。
にもかかわらず
その個人を統覚機能が自分だと思い込んでいるのだと。

観照者ではない「主体と客体に分割してみている心」とは記憶である
観察者のことである。
その心・記憶とは観察者と観察されるものに分離して見ているので、
その心の記憶である自我・個人も同じように観察者と観察されるものを
分離して見てしまうのだ。「内部」と「外部」を別なものだと見てしまうので
ある。

この分離して見てしまっている意識的自己・個人とは純粋精神によって
起こっている心の記憶であり、その反応であるといえる。


従ってクリシュナムルティーによって詳しく云われているように
自己観察時に於ける
観察者によって見られている私・個人とは、その見ている観察者自身なの
ではないか
記憶である自我が外部に自己を投影して判断し、評価しているのである。
この観察者こそがマインドの記憶であり、記憶の反応なのである。
マインドがこの観察者自身であり、そしてその観察者によって観察されて
いるものなのであるのに、このマインドである観察者・私は“見ている私は
見られている対象とは異なっている、観察者である私が、対象として私以外の
観察されている対象を見ているのだ”と錯覚して自分のこともそして自分
の投影である他人のことも判断し評価し非難したりしているのである。


出来事も、肉体も、行為もそしてマインドもそしてその記憶であり個人である
私自我も純粋精神によって生じている。起きている、起こっていることがら
である。
このわたし自身とは統覚機能である鏡に映し出されている純粋精神から
の映像なのだ。


この映像で記憶である個人が「自分が出来事を生み出し」、「自分が行為
を為し」、「自分が生きている」と実感するのであるが、この実感している
私こそが、このシステムを支えるために生じ、維持されているシステムの
一部なのではないか。純粋精神の一部なのだ。

実際には思考が起こり、欲望が起こり、その記憶・私・自我が起こり、
その自我の反応が起きているのである。なのに記憶は言う、私が思考して
いるのだ、私が考え望んで選択し決断したのだ。それは私の意志なのだ。
私が欲望しているのだと?!!


個人・私とは記憶であり維持継続され条件付けられているように反応を
生み出し続けている「生じ起こっている」ことである。
記憶はマインドの結果であり、個人・自我も起きている結果である。

マインド・思考が観察者と観察されるものの分離自体ではないか
だからそのマインドが観察者と観察されるものの分離を生み出し続け
ている。だからその記憶の個人も、その反応もマインド・分離の一部で
あるものであるといえる。

故にラーマクリシュナは「自我とは神が演じている」と言ったのではないか

にもかかわらずその個人を統覚機能は私だと錯覚しているのではないか
個人の私とは肉体や、行為と同じように起こっている事であり、起きてい
るマインドの記憶の反応であり、この私・自我とは起きている事の一部で
あるからだ。意識的自己の意識とは起きている事なのである。


心が、マインドが、そして行為が、出来事が生じ起こっており
起こっていることの記憶が「自分が行為している個人・自我」を生み出し
その記憶が自分が行為して、自分が生きているという錯覚をしている。
それがこの個人・私・自我である。
起こっていることとは心であり、マインドであり、そして意識的自己である
それは出来事であり、行為であり、個人でもあるといわれているものだ。

統覚機能はその起こっているマインドやそのマインドが生み出した
記憶の反応である個人・自我を私だと錯覚している。

だからこそクリシュナムルティーは最期までこの統覚機能にたいして
「見なさい!」「思考なくして見なさい!」「心なくして見なさい!」と言い
続けたのである。それは私達とは「私と言う観念」ではなくて「真実の目」そ
のものであるからに他ならない。
だから統覚機能である私達は思考なくして見る事が可能なのである。

だが記憶の個人とは未知なる真の私ではないし、統覚機能の私でもない。
観察している私とは観察されている私にほかならないにもかかわらず
記憶の個人は「私は観察者であって観察されるものではない」と見ている
この見ている私とは、その私によって見られている対象自体にほかならない
のに、記憶の私には見られている対象はその見ている私自体であり分離し
ていないことが理解出来ないである

観察者と観察されるもの・・それは共に記憶であり
心が生み出している私であり、その個人とは未知なる真の私ではないし、
統覚機能の私でもない。
心が生起し、その心である出来事が生起しているのであって
私が出来事を起こしているのではない。その逆の私こそが起こっている出
来事なのである。
この意識的自己である個人とは生み出され継続し続けている記憶である。

自分の心を観察している私とは、観察されている心・私にほかならない。
恐怖を観察している私とは、観察されている恐怖にほかならない。
恐怖自らが恐怖を対象化して観察し、その恐怖に恐れおののいている。
恐怖を観察しているのは恐怖であり
自我を観察しているのは自我なのである。
何故なら真の私の目には恐怖もなく、自我もないからである。


と、そのように云われている