自己否定
感覚や実感が与えているものとは、現実や事実と相違している
私達に於いては感覚やその実感が与える五感や知覚の中身とは如何なるものか?
また私達が感じ思っている知覚や思考や感情や記憶や欲望とは何か?
それらの知覚による実感とは自分が生きている、自分が行為している、自分が感覚している、自分が思考している、自分のいのちである、自分の意識である、自分が自分の主体である、自分が知覚しているということを私達に実感させ続けている。感覚や知覚が私達にたいしてそのように実感を与え、そのように言い続けている。
そして私達はそれらの実感というものをまったく何ら疑うことなく真実として受け入れている。
自分とは主体であり、自分が思っていて、自分が行為しているのだと・・
しかし最近の大脳生理学をはじめアドヴァイタの教えは実際の現実としては決してそのようではないことを証明し立証している。
だから私達はこの実感という五感と六感と知覚によって騙されていることになる。それらの知覚や記憶によって騙され続けているのが統覚機能の私達なのである。
私達は騙されている、惑わされている、幻覚を与えられているのだ
というより統覚機能の私は私ではないものを私だと思っているのだ。
もし私達が普遍的な純粋意識や真の私の意識であるなら、身体や頭脳に束縛されていない意識そのものであるからして、自分が行為していないことは自明なことなのであるし「私は肉体ではない」「行為は起こっている」「私は行為していない」と言明することだろう。
けれども通常意識の私達とは純粋意識でもなく真の私の気づきでもないし、統覚機能の一部分であるので、「自分は行為している」と実感している「行為の結果としての自己意識」のことを全く極く当たり前に当然のこととして受け入れてしまっているわけである。この自己意識とは起こっている行為とともに創り出され付与されている「結果としての自己意識」のことだ。この記憶のことだ
そして統覚機能の私は脳と結合しているのでその実感と知覚のことを当然のこととして何ら疑うことはなく受け入れその意識的自己を自己であると信じている。
ではここでこの私達とは一体どの私を指しているのか?私とはどの私なのか?ここで言う私達とはなにを指しているのか?という疑問が生じてくる
ここで言う私達ということはどの私を指しているのかが問題となってくるのだ
私達とはどの私なのか?
私達は「行為の結果の私として、自分が行為している事を実感している自分」「記憶し、記憶の結果としての自分」「自我の私」「思考である私」を当然疑うことなく、これらの自分のことを自分自身だと思い込んでいるし、このことを疑ったことは一度といえどもないのだ。
しかし、この「結果としての自己意識」が自分なのであろうか?そうなのだろうか?行為の結果として生みだされ記憶となっている意識だけが私なのであろうか?この欲し、願い、恐れ、苦しみ、限定された知覚と思考の私だけが私なのであろうか?これは神によって投影されている映像である私なのではないだろうか?
この意識し意識されている私、観察し観察されている私・・この自我の私・・この私が本当に私なのであろうか・・?
この「世界を自分とは別だ」と実感し、「思考と記憶と欲望にまみれ、恐怖と不安に苛まれている自分」が本当に自分なのか?
現実や事実に於いて本当に「この思考であり心である自分」、「記憶から成り立っている私」「私と言う観念の私」とは自分なのであろうか?
当然それはそのように思えるし、それは間違っていないように思える
がしかし、それともこの私とは私ではなくて、全人類共通の「私と言う観念」が「私の感覚と知覚と実感を持った私」であるがゆえに、全ての人類の脳に浸透していて、その「私という観念」の私を間違って統覚機能の私が私だと思い込んでいるだけなのではなのか?
実際は純粋意識が行為しているのにもかかわらず、行為の結果として生じている自己意識の、その実感と知覚が脳と諸体内に起こっていて記憶となり「自分が行為している」という現実感が積み重なり、その実感と知覚を統覚機能に与え続けている、
それが統覚機能の確信となり、今度は統覚機能が錯覚を起こし、真の私とそれらの私を取り違えることによって統覚機能の周りに「無明・無知」が構築され強化され、そのことで輪廻に縛られているのではないだろうか?
だからしてその行為の結果生み出されている「行為していると実感している記憶の私」すなわち「行為の責任を引き受ける私・自我」が、この脳を中心とした条件付けられているシステムと統覚機能の状態によって、また統覚機能の反応の仕方によって様々に創り出しているのではないだろうか
それがカルマであり、今世の肉体であり、私達ひとりひとりのDNAでありサムスカーラなのではないか
この肉体とカルマの責任は統覚機能であり、統覚機能のあり方にかかっているといえようか
真実の私は未知なる私として、統覚機能の私や、通常の意識的自己である私達には意識化されてはいないけれど厳然として実在しており、この私達のことを慈悲の心を持ってあるがままに観照しておられると言われている。
なぜなら現実問題として、もしこの意識が一瞬でも存在していなかったら呼吸はおろか、肉体を動かすこともなくなり、考えることもできなく、苦しむことも楽しむことも、知覚も、思考も、記憶も、自我もなくなってしまうことだろうからだ
この真の私があるからこそ統覚機能の私も生命もそして記憶である意識的自己も諸体も肉体も自我も存在できている
だから心理学的に大きく分けて私達によって意識されている私・自己とは三つに区分される(精妙身体やチャクラの観点からではないけれども)
@ 実際に知覚し、知覚され、記憶し、そしてまた意識し、意識され、実感し、実感され、観察し観察され、感じ、感じられ、知覚される私・自我即ち意識的自己。思考し、欲し、恐怖をベースとして心でなりたっている私。記憶の私。結果としての自己、意識的自己即ち自我と言われている私。私と言う観念の私。頭脳と諸身体の状態でもあり、NAの状態、カルマの状態、サムスカーラの状態、チャクラの状態の結果でもある。統覚機能が真の私の意識を顕すことが出来る状態になることはこの頭脳やDNAやチャクラや身体の状態が非常に重要となるからである
A 鏡としての私、統覚機能としての私、現在意識を写している私、@の私を鏡の表面で知覚して@の私を私だと思っている私・・けれども最終的にはこの鏡の私も高度な心から成り立っており、真の私から投影されている「意識の座としての私」といわれている。この統覚機能の状態は非常に多くの段階があり、それは具体的には未形成のサイコ・ノエティック体の形成具合によって示されていると言われている
B 自我の私には知覚することも理解することも、認識することも不可能な真の私、気づき意識の私。Aである統覚機能の私の内奥に実在する非思考、非対象で時間と空間を超越し、普遍で遍在している純粋意識でもある私
と、大まかに分けて以上の様に分けられるだろうか
私達が自我としての実感をしていて
自分が行為して、この「搾少している思考である現在意識」に拠って知覚される感情や衝動や恐怖や記憶や欲望や形象や具象を自分の感情、衝動、記憶、恐怖、欲望だとして、自分の内面を見ている時、その自分を見ている私も、(その見ている私によって)見られている私も、また行為して欲望していると実感されている私も、それらは即ち自我の私である。
それらはまさに自我である「私と言う観念・記憶」が起こしている内部と外部であるといえようか。
「観察している私とはすなわち観察されている私」であり、それは共に恐怖であり欲望であるもの・・即ち「私と言う観念」が引きおこしているものであるといえようか。
この日常生活で意識し意識されている私とは通常のレベルの人間では勿論自我そのものであることだろう。脳を通じて私と言う観念が生み出した意識的自己という私だ、だから日常生活での意識し意識されているこの私とは殆どが動物魂及び自我の私であるともいえるのだ。
では自我の私とは何だろうか?
それは鏡にとりついている「私と言う観念が生み出した私」ではないか・・・・とここまでは知性によって理解出来るのであるが
けれども、ここまでのこの理解は悟性による理解であり本当の理解ではない。このことの真実である現実の理解がやってくるまでは、心底からの「行為は起きている」ということを直覚することは出来ないであろう。
それまではこの「行為は起きている」ということは自我がそれを口に出して言う場合、この自我である私にとっては矛盾していることを言っている事となる
ではいったいそのことに対して本当の理解がおこるまでは@である自我の私にとっては、どのように生きることが尤も妥当で相応しいことだと思われるのであろうか
それは全託することではないだろうか、
思考が沈黙し静かに観照する事ではないか
それは全て内も外も神が為さっていることであり、神そのものであると自我が認めることではないか、真の私に降参することではないか。
それが意識的自己による自己否定ではないか。
自我の終焉ということだろう。
私達が私という場合、どのくらいのレベルの自我であるのか?統覚機能がどのレベルであるのか?
どの程度サイコ・ノエティック体が再形成されているか?それが大問題であるといえよう
私という自我の意識が消滅している程度に於いてこのサイコ・ノエティック体の再形成は進んでいくのであるといわれている。サイコ・ノエティック体の再形成なくして自我の終焉は起こらない
また自我の終焉は意識的自己だけの状態ではなくて、肉体の脳と身体の状態が非常に影響を与えている、相関関係にあるのだからだ。この意識的自己がもたらす統覚機能の状態は必ずDNAと肉体の頭脳とチャクラの状態をも決定していく事だろう
この肉体と精妙体と意識的自己と統覚機能はそれぞれ密接に関係しているからである
しかし残念なことに通常の一般的人類の場合には、私という感覚とは自我のことを指し示し、そのように実感していることだろう。人類の現在意識の私とは意識的自己が大半を占めているので行為の実感が当然あることだろう。この場合には、この私達にとっては自己否定と自己の終焉が最も要求されることだろう。この自己否定こそ自我である「私と言う観念の記憶」にとって最も相応しく望ましい事柄であるといえるのではないか。自己を内奥の純粋意識へと捧げる事であり、真の私の復活でもある。自我が死ぬことによって二度生まれることである。このことは本当の意味で生まれることであり。肉体の誕生日とはまだ誕生していないから誕生日ではないといえる。
だから私達は正しい信仰と勇気を持って自己を明け渡す事へと向かうのである。どこへ向かうのかと言えば内部にある真実の私である純粋意識へである。
この意識的自己である私とは私ではない。私だと主張している自我であり。知覚し知覚される私だ。この分離している私を実感し、この行為しているということを実感している私とは自我なのである。そして自我がここに生きている・・・私として・・
だがこの知覚し、自分は自分だと、自分が自分の人生を生きているのだ、という知覚と実感をしている私とは私ではないのだ・・・
と、このように自我である私達が自ら、この自我である「私達」「私と言う観念が生み出している私」がみずからの自己を自己否定し、自己の存在を終焉しようとすることが大切なのではあるまいか。
これは勿論肉体や諸体という崇高なる神の宮に関する事柄ではない。肉体の死とは自我の終焉や自己否定とは全く関係がないからである。肉体が死んでも自我は死なないからである。私達は自我の死を目的にしているから肉体の死は死ではないし、それはここで問題にしていることとは関係がないからだ。
もっと適切な言い方をすればこの行為していることを実感し、自分が私だと感じている自我の終焉=死が本当に必要な事だと思われる。
肉体の死とは実際には継続であり、恐怖が継続していくことでもある。継続は輪廻に結びついている事柄であり、腐敗していくことでもあるとクリシュナムルティーが言うように時間の中には自由もなく解放もないからであると。
だからこの自分以外の全てと分離し、自分が行為し、自分が生きていて、自分が欲していて、自分が考えており、自分が決断し、自分が動機を持っていると実感し、そのように知覚し、他人を自分以外の人間だと知覚している私とは、その知覚している私、自らによって自己否定され、終焉を迎えることが望ましいといえるのではないか
自我が自らを自己否定するのである、自我が自らを真の私へ捧げるのである
自我の終焉とは、自らの死であり、自らが自らによって死ぬことであり、自らが自らによって否定されることである。これは同時にこの自我の意識の基底にある統覚機能としての私が復活することであり、統覚機能の表面を覆っていた私と言う観念・自我が薄らいでいくことが起こっていくことである。そして統覚機能の内奥の真の私が復活していくことである
さらにこのさきには統覚機能としての魂の死もあることであろうが、私には全くもって理解が不能である。これらの話は自我の終焉後の話であり、自我そのものである私の段階では雲の上の話だからだ
クリシュナムルティーの説く自我の終焉とは同時に即ち私達の復活のことである、そのようにして統覚機能の私として生きることが始まるのである、そしてさらに統覚機能の内奥に真の私がいるのであるから
けれどもそれが起こるためには自我による自己否定が、自我の私達による自らの終焉が前提とされるのであろう、それが思考することなく沈黙の内に全てを受け入れ内外のあるがままを受動的に凝視しようとすることだと
それがまさに「見ようとすること」ではないか。受容し、全託し、観照しようとする事だ(実際の全託・観照は起こる事柄だからだ)「思考なく、自我なく、心を動かすことなく、あるがままである自我と思考と起こっていることがらをそのままに見ようとする事。内外のことを対象としてではなく、自分を排除し、思考を排除し、動くことなく、行為することなく分離することなく見ようとする事、ただ心を動かさず判断なくみること」これが自己の終焉と、自己否定にへと至るアドヴァイタへの道であるのではないか
復活なくして生きることはないし、自我の死がなくして復活はない、
またこの自我の死が起こるためには自己否定が前提であり
自己否定と自己の終焉にはあるがまをあるがままに思考なく見ることが前提であり、その為には見ようとする努力が不可欠であるといえようか
従ってこの見る事が起こるためには自我に対しては見ようとする努力が要求される
思考なく見るためには、思考の沈黙と静寂が求められる所以である
思考なく見る事が起こることが可能なのは、私達の自我にさえにも、この思考を超えている意識が支えて起動しているからこそであると