鏡に去来しているもの
統覚機能(鏡)は統覚機能によって知覚されている“内部と外部にあるもの”を対象として見ているけれども、この対象として分離して見ていることこそが無明なのではないだろうか?
というよりも内部と外部に分けていること自体、即ち自分と他人を別々に分けていること自体が無明であるということ、見ている主体と見られている対象を別々だと見ている事自体が偽りなのではないか?
これが「私という観念・心」であり、幻想であり錯覚なのではないだろうか?
見ているものとは見られているものなのではないだろうか?
統覚機能によって知覚されている「主体と客体の分離」ということが無明ではないか、と言うことである。対象として知覚していることそのものが統覚機能の錯誤であり無明だと言うことだ。
これは統覚機能が「私という観念」と同一化しているために起こっているのである。そしてそれ故にその「私という観念」からは必然的に私の地位、私の悟り、私のプライド・自尊心、私の達成等々という自己関心が生じてくるのである。それが私と言う観念が生み出す自我の実感である
見られているものは見るものである。対象とは主体なのだ。対象と主体は分離できないと教えられている。にもかかわらず「それらを別々と見ている心」を統覚機能が自己と同一化してしまっている。
統覚機能が「それらを別々と見ている心」と自己同一化してしまっているということであろう。
というのも統覚機能は脳に結びつけられているからである。
脳が想念を受け取り、その想念を自分の想念と錯覚した統覚機能が想念やマインドに巻き込まれて、今度は、それに対して間違って反応し自らが想念を発信し、さらなる混乱を深めているからである。
鏡に去来している葛藤や欲望や行為や肉体や出来事、そして「自己や他人を対象として見ている事」が心の本質なのである。それは心が起こしているのである。それこそが根源による幻想なのではないだろうかと言うことである。
聖賢によって言われているように
統覚機能によって対象として知覚されている自己や他人や出来事や行為など
又知覚対象である内部や外部のものとは、それらは本来は統覚機能ではなくて心のものであると、
だがしかし心そのものが統覚機能を通じて投影されており、統覚機能はその心に対して自身の機能の一部である記憶から間違って反応し更なる混迷を引き起こしているのである。
ゆえに
統覚機能を通じてそれらは投影されているのにも拘わらず統覚機能はそれらの「私という観念」という心を自分自身と取り違えたのである。
即ち去来している心・想念というもの、身体や行為というものを即ち「分離している対象として捉えてしまっている偽りの主体」を真実の主体と取り違えたのである。「私という観念」という偽りの私を私と見違え、取り違え、根源が為している肉体の行為を自分が為していると思い込んだのである。
それは即ち鏡に映っている心という「思考や想念を対象だと捉えているもの」とは、真の私ではないということである。さらには鏡を覆う「私と言う観念の私」を私だと思ったのである。
鏡に映っているところの「来ては流れ去る想念」を対象として見ているものはその想念自体なのである。心が心を対象として知覚しているのである。「私という観念」である自我が自我を対象として、内部と外部(鏡に映った他人として)に自我を知覚している。だがその私とは「私という観念」であって鏡それ自体ではない。
心自身が鏡に流れ去る想念や、その来ては去る自己や他己を、そして内部や外部を対象だと捉えているのである
だがそれは鏡自身ではない
その対象だと捉えているものこそ心であり、心が主体と客体(対象)の分離を生み出しているのにほかならないのではないだろうか
鏡という現在意識の座であり、かつ知覚している統覚機能は、脳と結合することによって、脳内に去来しているものである想念など『“鏡に写っている対象”が自分が異なるものだと捉えている心』を自分だと錯覚したのである
統覚機能という鏡に心が去来している
そしてその心である「私という観念」を統覚機能が自分だと思っている・・この錯誤それが無明なのではないだろうか?
鏡に映っているものである心とは鏡本体ではない
それは鏡を通じて鏡から投影されているのにもかかわらず
鏡は鏡に写っているものは「対象として知覚しているものである心」を、自己と取り違えたのである。この錯覚・幻想、「自己を心と取り違えていること」これが無明なのではないだろうか?
鏡に知覚され鏡に映っているものとはこころであって鏡自身ではない。鏡とは対象ではないからである。鏡それ自身は対象ではなく、意識そのものであるから知覚や認識の対象ではない。意識であるから自他に分かれておらず、身体に縛られていない。意識であるから対象を知覚しない。分離して知覚しない。意識は他と異なっている私ではない、すべてのものの主体であるからだ。
鏡に映っている心が心を対象として見て分離して見ているものである。それが心の姿であり、心の限界なのである。それが心の特性なのであり、そしてこの心から「私と言う観念」が生じている。
実際は心によって知覚されている対象とは、知覚している心そのものであり、心が自分自身である心(主体)を対象として分離して知覚して、自分とは異なっている対象として見ているのだ。
それと同じように全人類共通の私と言う観念が「自己自身である他人」を「自分とは異なっている他人」だと見、自分の事を「自分は他人とは異なっている私だ」と見ている。そしてこの「私という観念」から自尊心と競争心と達成心が生まれプライドと尊大と卑下が生じる。さらに良くなろう、至ろう成ろうとする飽くなき「なること」そして「そのための方法の模索」が始まる
どうしてなのだろうか?
なぜならば「私という観念」とは身体と同一化し分離しており、世界を自分とは異なったものとしてみている無明であるからだ
その二元の心こそが見られるものを自身とは異なっているものとして捉えてしまうのではないだろうか?
その「私という観念」が現在の鏡の意識を覆い尽くしている。それが自我であり、私と言う個別的感覚・実感であり、意識的自己という「似而非意識である私・個人」ではないだろうか。
この文章を書いている私も、読んでいるあなたも「その似而非の私=記憶の反応」にほかならないが、この似而非の私が現象(実存)していられることは、まさに意識が支えているからである。夢見と熟睡と覚醒の思考=自我=心が働くことが出来るのも私と言う観念の記憶の自我には知覚できないが、このベース(基底)には純粋意識が厳然として実在しているからである。
この真の私である意識とは私と言う観念の記憶の私にとっては未知なる私、未知なる純粋意識ではあるが、この未知なる私が統覚機能の内奥に今ここに厳然として実在しているからこそ私と言う観念の自我が実感されているのだ。二元は非二元が支え分離は非分離が支え、顕現は非顕現が支え、心や思考や自我は純粋意識が支えているのだ。
この現在の私達が知覚し、かつその私達によって知覚されている自己という私とは、心の一部である記憶であり意識ではない。この両者、知覚している私と、知覚されている私とは共に意識ではなくて分離した「私という観念」だ。
この現在意識である自他に分離している私という観念である自我とは意識だと思われているけれどもそれは意識ではない。
この意識と思われている観念とは記憶であり記憶の反応なのではないだろうか?「私という観念」が生み出した記憶とその記憶の反応だ。
この「私という観念」とは分離しており「私、私だ、私の」という他と分離している実感で成り立っており、五感、六感、という分離知覚している私であり、自我・個人の内面を構成している意識的自己、記憶の私であるからである・・そしてこの「私が、私の」という個人という自己意識は全人類が共通の同じ「私という観念」であり、それが達成への競争心とプライドに苛まれる自我なのだ
だからこの自己、意識的自己とは自然と同じようにマーヤによって作られており、自然のものだ。それこそが心であり統覚機能を通じて投影されているものではないか
世界と宇宙と自然とが根源の創造である様に、この意識的自己もそしてその行為も、肉体も、頭脳も起こっていることがらであり、根源からの映像なのではないか?心とは根源からの投影ではないだろうか?
集約すれば現在意識というこの統覚機能に起こっているこの心も自然や宇宙と同じく根源の中で起こっている映像なのであろう
同じようにこの「私という観念」とは人類の現在意識や潜在意識と同じ地平の意識即ち自我意識であるがこれらは共に根源の中にあり、根源からのものであり、根源の演技であり、根源からの投影であるといえようか。