行為していると実感しているのは誰?
「誰が行為していると実感している」のか?
「誰が行為している肉体を自分だと実感している」のか?
身体の行為を「自分が行為している」と実感している
のは誰なのか?
それは行為の一部分である肉体の脳の「記憶の私」であり
肉体それ自身であり、「脳の構造で生み出している記憶の意識即ち受動的意識」
だと大脳生理学的見地から一般的にはそのように思われている。
その自分が行為しているという実感とは
「肉体の行為の一部である“行為の記憶”という“脳”」の実感にほかならない。
と通常はそのように思われていることだろう。
だが、そうであろうか?
肉体がそう思って「私が行為している」と言うのだろうか?
行為していると実感し、知覚しているのはているのはその脳の記憶なのだろうか?
それとも神経を介して感覚を知覚している霊的精妙体をはじめとする統覚機能なのだろうか?
その脳の部位に記憶の実体、感覚の実体、知覚の実体などが密接に絡んでいるので
そのような実感が成り立っているのではないだろうか?
だから、それらの肉体の脳と密接に接合はしていても肉体とは異なっていて実感している「私」があるのではないだろうか?
では肉体の脳と異なっている主体で「私が自分だ」と思っている「感じている私」とは誰なのか?
「それらの行為していると実感し、且つ“脳の意識内容や記憶”と同一化してしまっているのは誰か?」
と更なる質問が起こる
それは
神経によって身体と脳とに結合しているものにほかならないのではないか。
それゆえに「その結合しているもの」が肉体が行為しているのを「自分が行為している」と知覚し錯覚するのだ。
だが肉眼での視ることでの瞼や眼球、瞳孔の動きのみならず、発声に伴う舌の動きや呼吸の肺の連係作業。行動における筋肉と神経の伝達の見事な一致したプロセス、それら「私による自由意志に基づく行為」とおもわれているものを詳しく見てみると
「神経で繋がって身体の全身を知覚している統覚機能の私」の働きだけでは、これら行為というものは成立していないことが判明される。この全身に張り巡らされている神経を使っているのは「統覚機能の私」なのではなくて、肉体を造り、維持し、大脳以外の脳を見事な調和した機能で動かし「統覚機能の私」を使っている根源の純粋意識なのであることがわかる。
では、その神経の知覚や実感があるので、この肉体の行為を「自分が行為している」と錯覚しているものとは誰であるのか?
それは脳と一体化し、肉体としっかり神経によって結合し、身体の隅々まで神経経絡を通じて結ばれている「統覚機能」という知覚主体にほかならない。
それが個別的霊魂と霊的精妙体であるのではないだろうか。
この個別的霊魂が「自分が行為している」と、脳の部位に繋がっているが故に錯覚するのだ。
ラーマクリシュナは言う
「人は純粋精神によって動いているのです。
その純粋精神によって、非精神的物質に至るまで精神(有実在・知叡智)にな っているのです。
その純粋精神によって手も足も、身体も動いているのです。
人は身体が動いているのだ言いますが、
しかし
あのお方(神)が動かしておられるのを知らないのです。」
ここでラーマクリシュナによって「人」と言われているこの個別的霊魂と霊的諸身体とは
通常では
日中及び睡眠時に於いて脳と結合しているが故に五感や六感を通じて外部と内部とに別々のものとして知覚し、肉体の神経を通じて、肉体を知覚するが故に「自分の肉体だ」と錯覚し、肉体の行為を自分が行為していると思い込み、脳内に起きている記憶の反応などを自分の反応と思い、さらに脳が受信する諸々の想念などに対しては、今度は「個別的霊魂それ自身であるマインド」から反応している。
この個別的霊魂の反応こそが「葛藤」といわれているものなのではないだろうか。その個別的霊魂こそ神が使われておられる自我と言われているものなのではないか。
だから、この自分が行為しているという実感とは
個別的霊魂が精妙体と共に肉体や頭脳と神経によって結ばれていることによって
発生している幻想・錯覚であるということではないか。
このことを実際的に順を追って考えて見れば
行為が遂行されるためには、
その行為以前に、
その「行為を実行するのだ」との選択が行われており、
そして選択がされる前には或る動機を持った意志が発生している必要があり
その意志が起こる為には
頭脳に於いて欲望と感情と想念が発生していることが前提となる。
そしてこの脳によってそれらの想念などが受け取られるためには、
それら想念や欲望や動機などを発している「心」というものがなければならない
この脳によって受け取られている心こそ純粋精神によって生み出されているものなのではないのか。
この心のことを大脳生理学者は比喩的に「潜在意識のこびと達」と言っているが、実際には「そのこびとと言われている潜在意識」や無意識を経由して純粋意識からそれらの心や想念が沸き起こっているのである。根源から心は涌いてきているのである。
ラマナ・マハリシはこの地点まで到達できたら、一転してこの心は姿を消し本来の純粋意識が姿を現すと言っている。
それゆえラーマクリシュナもそれらの心とは純粋精神によって引きおこされているのであるということを語っているのだ。
だからこそ、肉体の行為とは純粋精神から生じた心によって為されており、
それが個別的霊魂にとっては《統覚機能という自分自身を通じて上記のプロセスが為されているので》行為というものを、自分が選択し、自分の意志で、自分が考えて為していると錯覚するのである。
なので個別的霊魂は肉体の行為とはマーヤという純粋意識に拠ってなされているにも拘わらず、この個別的霊魂の自分は「私が行為している」と必然的に思い込むのだ。
それはやむを得ないことでもある。
魂からの神経を通じて、その神経によって肉体の行為を自分がしていると感じ、そのように知覚してしまうからからである。
だがしかしそれは根源が(純粋精神が)魂自体の神経を使って為されているのである。
(※ここでいう個別的霊魂とは神が使用している自我のことを言うのであり、内奥の私ではない。その現象界部分の機能を統覚機能ともいい、知覚している主体である。エレブナではサイコ・ノエティック体とも言われる現在のパーソナリティーのことを指している。この私は記憶を有し転生を継続する担い手であり“サムスカーラという継続する特性”を有している私であるが通常は脳と神経によって結合している。神の指人形の私、自分が行為していると信じて葛藤し苦悩する自我である)
個別的霊魂である自分(自我)という媒体を通じて純粋意識は行為を肉体になされているというラーマクリシュナ方の観点は個別的霊魂の観点ではなく、この個別的霊魂を動かしている純粋意識である観点から話されているということである。
このラーマクリシュナ方の立ち位置は純粋意識として、そこからであり、そこから話されているのであって、個別的な魂の立ち位置からではない。ラーマクリシュナ方は純粋意識なのである。
この肉体の行為をしているという実感、自分が為しているという実感とは
個別的霊魂である(自我)という媒体が持っている自由意志を通じて、自由なる純粋意識が為されていることであるのを、自分の人生で、自分が起こしている出来事で、自分の自由意志であるかのように統覚機能(自我)には知覚させておられるのである。
だからこそ、この個別的霊魂こそがマーヤを成立させている媒体であるのだろう。
その統覚機能と言われる個別的霊魂の意識は現況に於いては内奥の純粋意識と結ばれているパイプが詰まっているので、自分は普遍・全体ではないと思い込んでいるのだと賢者達は語っている。
従って、脳に縛られている統覚機能は脳の知覚を知覚し、自分が行為しているという実感(幻想)が知覚されているのだ。
この現況に於ける平均的な魂の状態とは
純粋意識は個別的霊魂に知覚されず、この「個別的霊魂という鏡」には脳を通じてマーヤが投影され、自分が行為していると幻想に巻き込まれているということだ。
この魂の状態とは、純粋意識による演技であり、悟りというものも統覚機能の努力に拠って勝ち得たものではない。この統覚機能の努力そのものも、努力を起こしているのは統覚機能ではなく、統覚機能の奥にある純粋意識によるものでなのではあるまいか。
この「統覚機能という鏡」には
行為が映し出され
言語が映し出され
想念が映し出され
選択が映し出され
動機が映し出され
欲望が映し出され
自由意志が映し出され
形象と記憶が映し出され
記憶(サムスカーラ・自我)の反応が映し出され
カルマが映し出され
運命が映し出され
出来事が映し出され
社会が映し出され、世界が映し出され
その反応であるところの自我の想念・欲望が映し出されている。
即ちこれら全ては「私という概念」から派生している
そして
統覚機能はこの「私と言う観念」から派生している、二次観念を
(この対象と映し出されているものを、)自分自身だと錯覚するのだ。
それは統覚機能である個別的霊魂がそのように「これは自分の想念だ」と錯覚するように造られているからだろう。
これら鏡によって映される一切の心、それは鏡に写っている対象であり
鏡から放なてれている純粋意識ではないといわれている。
鏡の役割とはこの光である純粋意識を内奥から放射することであるからだろう。
現在のところは私達人類の殆どのこの統覚機能という鏡には、神の劇場であるマーヤが映し出されている。
即ち行為と自由意志と心という宇宙的規模の映画が内部と外部に分割されて、映し出されている。
この「知覚主体である鏡」には「神の道具である自我」・「私と言う観念」が映し出され、そして神経を通じて行為の実感が知覚されているのである。
だからして、この個別的霊魂と霊的身体こそがマーヤの一部といえることだろう。
この個別的霊魂とは鏡であるけれども、心の一部、分離の一部、二元の一部、マーヤの一部であることだろうからだ。
神のマーヤとは
この鏡である個別的霊魂を通じてそこに投影され、同じ統覚機能によって知覚されているということだろう。
その知覚し、知覚している主体とは、即ち鏡とは、二元分離という心であり純粋意識そのものなのではない。
けれどもこの鏡がなかったら純粋意識も知覚されず、純粋意識が現象界に投影されることもない。
だからこそ
逆に言えばその鏡という媒体こそが、神の栄光を顕す媒体だといえるのではないか。
個別的霊魂である意識の鏡に根源からやって来ている想念や、欲望や、衝動や、形象や、抽象や、観念や、思考、そしてそれらが動機となって選択が起こり行為が為されている。
この行為のプロセスを見るとき、
自身の条件付けに従って反応している「脳の記憶」のことを自分だと思い込んでいるのは、私という分離している実感を持っている個人的な霊魂にほかならないという事、さらにこの個人的な霊魂も普遍的な純粋意識の一部であることがハッキリと見えてくる
その鏡こそが「私の」「私が」「私は」などの「私と言う観念」に汚染されている私という統覚機能である魂のことではないだろうか
即ちこの個別的魂である統覚機能を通じて、二元分離というマーヤは映し出されているのであるが、そのマーヤが投影される接触点こそが脳であると言えるだろう。
では何故、心という鏡である統覚機能は
それらの鏡の表面を自分自身だと思い込んでしまっているのか。
それは
その魂の外周こそ個別的霊魂の錯覚、即ち「私と言う観念」の一部にほかならないからだ。
この魂の周辺である統覚機能という個別的霊魂がマーヤの一部なのではないかともいえよう
この魂の外周の心こそが「私と言う観念」の心にほかならないからだ
だがその心とは、それは純粋意識ではない
それは魂の内奥の意識ではない
真の私は心ではなくて、神は心を使用しておられるのである
心、それは主体と客体に分離しており、それは純粋意識が使用している「私という分離した概念」にほかならない
それが根本の恐怖であり、幻影であり、個別的霊魂と霊的身体の意識であることだろう
それは幻影であり、虚偽であり、二元分離の意識であり、マーヤであり、
根源の表現・映像である
そしてこの個別的霊魂が抱いている「私という実感」こそマーヤがお使いになっておられる「統覚機能の錯覚」即ち自我であるのではないか。それが心だ。
この個別的霊魂・自我こそ神の使用しておられる指人形であり、神の使っておられる道具である。とラーマクリシュナは教えられている。
この統覚機能という自我・意識的自己・鏡とは「内奥の真の私」を投射する媒体なのであると。
個人・自我・意識的自己・統覚機能とは神によって使用され、動かされ、思考され、欲望され、動機を持たされ、対象を感じされ、知覚させられ、自分が行為し、自分が生きていると錯覚させられ、「私だ!」と実感する人形なのである。即ち神ご自身が演技しておられるのである。
そして、この統覚機能の「奥にある私」とはクリシュナムルティーなどによって示されているとおり「思考なく見ている」意識なのである。「思考なくただ在る純粋意識」そのものであり、形を持たず、身体を持たず、記憶の集合や、意識的自己の集合でもなく、行為ではなく、行為しておらず、起こっている事でもなく、知覚するものでもなく、知覚でもなく、知覚されるものでもなく、普遍であり全体であり個として分離されておらず、時間や空間によって分断されず、今であり、過去と未来を持っておらず、内部と外部によって分断されず、生まれることなく死ぬことなく、対象を持っておらず、私やあなたによって区別されない。純粋なる目、対象化されない実在・目それ自体である。それが「I AM THAT」である。と
この思考なく、心なく、対象なく、見ている、普遍で純粋なる目であるわたしが、人形である自我を使って表現しているのだ・・・と教えられている。
心を持って考え、思考し、自分が行為していると思い込んでいる私とは自我であって「意識である私」ではない、即ち私ではない。私は思考しないで見ている!・・と言うことなのである
その私ではない自我が「至ろう、成就しよう」とするのであり、また同じく「至るための方法を模索する」のだが、その自我をそのように使っておられるのは真の私なのであろう。