虚偽の中に真理を見る



虚偽を虚偽と見ているのは虚偽である。

虚偽だからこそ虚偽を見ているのだ。
マーヤが自他の分離というマーヤを見ているのだ。
それは統覚機能の錯誤がおこしていることだと
統覚機能が心と同一化しているのだ
それは虚偽を見ている心と
統覚機能が同一化していることだ。



虚偽の中に真理を見ているのは真理である。
真理は虚偽の中に真理を見ている。
消え去るものの中に変わることのない永遠を見ている。
それは純粋意識である真理だからだと。
真理は全てに真理を見て、全てを真理と見ている。
それは純粋意識だからだと


愛憎を愛憎と見て愛憎を感じているのはその愛憎自身である
しかし
その愛憎の中にあっても真実なる愛のみを見ているのは真正なる愛である。と


正邪善悪を正邪善悪と見ているのはその正邪善悪それ自身である。
正邪善悪の中に正邪善悪を超えた唯一なる真理を見ているのは
正邪善悪を超えているその唯一の真理である。その純粋意識である。と

それこそが
魂の内奥の純粋意識であるのだと


悲哀と狂気を見ているのはその悲哀と狂気である
狂気が狂気を狂気だと見ているのである。
悲哀が悲哀を見ており、悲哀ということを実感しているのだ。

そして
その悲哀と狂気のただなかにあっても真正なる愛と慈しみを見ているのが
その愛と慈しみ自体である・・と


現象を現象と見ているのが現象である心・マインドである。
心にとっては現象しか見えない。なぜならそれは心だからだ。
「私と言う観念」には「私と言う観念」の宇宙しか見えない
「私と言う観念」には、内部と外部に分裂し「私と言う観念」しか感じられない
その心とは主体と対象に分裂している、分離だからだ。
現象とは心であり、心が現象であるからだ。
現象とは覚醒時、夢見時、熟睡時の意識でもある。それが私と言う観念である。

そして現象の中に実相を見、現象の中に実在を見ているのが
心・マインドではないところの純粋意識である、と
そしてそれは
ノーマインドではなくて純粋意識である。ノーマインドはマインドであるのだと。


純粋意識が現象の中に、現象を支えている純粋意識を見ているのである
現象は実相によって支えられている、
それはちょうど生命が呼吸を通じて肉体の生存を支えているように
純粋意識が心を支え、至高なる意識が思考を支えているように
愛が全てを支え
愛が全てのものの中に愛を見ているのである。



心を心と見ているのは心である。
心の中に、心を超えている意識を見ているのは純粋意識である。
純粋意識は純粋意識を見ている。純粋意識に気づいている。



真理の真正なる愛の目の中には愛ではないものが存在していないからである。
真理の神聖なる愛の目の中には愛しか存在していないからである。
愛であるとき、全てが愛であることだろう。


恐怖を恐怖と見て、恐怖を実感しているのは恐怖それ自身である。
自我を自我と見て、自我を実感しているのは自我それ自身である。
それは「私と言う観念」である。
「私という観念」が、それ自身である恐怖を実感し、恐怖を見ているのだ。
「私と言う観念」が、それ自身である自我を実感し、自我を見ているのだ。


しかし
その恐怖が、その恐怖と共に動かずに、みずからである恐怖と共に静かにあり
その恐怖こそが自分自身であることを恐怖みずから悟ったとき
恐怖は静まる、沈黙する、動きはストップする。
心はもはやどこにも行かない。止まる。
これは統覚機能が自らではないものを自らではないものだと悟ることでもある
これは統覚機能自身の内奥に目を向け始めるスタートに立ったのだ
ともいえるのではないか

そこに奇跡が
そこに変容が起こる
そこに新たなる誕生が起こる。


何故なら
恐怖を正見している純粋意識の中には
恐怖は存在しておらず愛のみを見ているからである・・・と。
これこそ統覚機能が自らの魂の内奥を見ていることだと
自らの魂の内奥である純粋意識とは愛であるからだと

だからその
恐怖を実感している恐怖が、実感されている恐怖自身であることが見られたとき
すなわち恐怖を見ている自分自身が恐怖であったとき
そのとき
恐怖という虚偽が停止し、もともと本来あったものがそこに顕れるのであると
そこには恐怖が消滅し、変容され、そこに愛と慈しみが顕れるのであると
そういうことであろうか


それが虚偽の中に真理を見ることにほかならない
のではないか


それがクリシュナムルティーのいう
「虚偽(マーヤ)を虚偽(マーヤ)と見る事、
虚偽(マーヤ)の中に真理(純粋意識・愛)を見ること
真理(純粋意識・愛)を真理(純粋意識・愛)と見ること」ではないか


統覚機能が統覚機能によって知覚されている対象である心を
即ち「私と言う観念」を統覚機能が自分自身だと錯誤していたのである

魂を覆っている「私と言う観念」を魂で有る統覚機能が、その「私と言う観念」を
自己自身と同一視したのである。


だが実際には統覚機能である魂の内奥とは純粋意識であり
真理であるのだと教えられている。

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