何故権威に従うのだろうか



私達は何故、権威に従がったり、権威を受け入れたりするのだろうか?

私達は何故、自分自身をよりどころにしないで、権威を祭り上げ、その権威に従うのだろうか?

動機は色々とあることだろうが

その動機の一つに、自分がその権威と一体化して、権威になろうとすることがある

権威とは愛のない自我が起こしている支配欲なのだ。神のように拡大して支配したいのである。

だから権威に従うのである。

「自分だと思われている自我」の支配欲が権威に従う衝動を生み出しているのではないか?

私達はその支配欲に動かされて権威を作り上げ、権威を受け入れているのである。

権威となることも、権威を崇拝することも私達を堕落させる。


私達には愛がないので、それゆえに権威に従うのである。愛があるところには権威はない。

私達は愛が乏しく、自己の内奥を見たことがないので権威にしてしまうのである。

愛があるなら権威に祭り上げたり、崇拝したりしないことだろう。尊敬するだろう。

自分の中に光が在るからだ。だから相手にも同じ光が見えるから相手をも

尊敬する。





権威を崇拝するところには愛がない、愛は権威を否定する。

権威があるところには愛がない、愛には高低の区別がないからである。

権威を受容し、従うところに愛はない、愛には従う者も、従わせる者もない。

権威に従うところにこそ堕落がある。自分からの離反がある。


権威とは何だろうか?

自らのこの私の葛藤の中に本当の宝が隠されているのに、自分以外に

その宝があると思い込むことだ。愛から離れ去ろうとすることである。


それは、真の私から離れることだ。

自分の内奥以外に光を探し求めることは内奥の神から離れることである。

自分をよりどころにせず、外により頼むことは真の私から離れることだ。

その外の権威とは

あるときは人類の救世主であったり、知覚対象の神であったり、宇宙船で宇宙

から飛来した連合の長老だったり、テレパシーでコンタクトする叡智?の聖者だ

ったり、空中に現れるキリストだったり、寝室に突然に現れる大天使だったり、

グルだったりすることもあるだろう。

勿論そういうことはそれとしてあるから、それらのことを否定するのではないが、

私達がそれらを権威としてしまうことで、他の人びとと対立し、兄弟と離反し、憎しみを生み出し

宗教戦争の原因を生み出すようなことをしてしまうのである

だからこそ私達は権威を生み出してはいけない。それは歴史を見れば一目瞭然だ。

私達はそれらを権威にしたり、権威として祭り上げたり、その権威に従ったりして戦争を

生み出してきた。

なぜなら私達はそれらを権威とすることで自らの自由を奪い、他人と離反し、兄弟を憎悪し、

敵を生み出し、そして自らを自我として縛り付けるからだ。


なぜなら真実の内奥の私は、この私に話しかけてきたり、テレパシーという想念を使用したり

あなたは多くの中から選ばれたのだとか言って自我をおだてたり、個別性を強調したりは

しないし、私達に言葉や言語を用いたりはしないからである。

まして私達の知覚や超知覚や心の対象として、内部や外部に出現したりはしないからである。


真実の私は、想念を用いず、言語を用いず、テレパシーを用いず、言葉を使用しない。

その純粋意識は「私やあなた」に分離していないからだ

それは対象ではない、純粋の主体である。

それは私が沈黙しているとき、まさに私のただ中から、わたし自身として顕現している

真実の私であるからである、と教えられているからだ。


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