個別的霊魂とはマーヤである
以下は「或る教え」から抜萃したものです
■個別的霊魂とはマーヤからであり、根源が使用されてい
る道具であると。根源はその道具を使って三界で演技され
自らを再認識されているのであると言われている。
個別的霊魂とは統覚機能の事である、知覚のことである。
そしてその知覚とは分離であり主客の区別で染まっている。
それゆえに個別的霊魂とはマーヤであると言われているのだ。
なぜだろうか
統覚機能とは脳と結合していて、脳で受信した記憶や感覚や行為や
感情や思考や欲望や時間などを脳から受け取り、それを自己と間
違え、条件付けられているように反応しているからだ。「私と言う観念」
に深く覆われてるのがこの意識的自己=統覚機能である。
この統覚機能とは全人類が全く同じ同一構造であるにもかかわらず
「私と言う観念」に覆われているが故に、肉体と同一化して自分は
個人で特別であり、他人とは別だと錯覚しているのだ。
だが明澄に沈黙することによって、自身の内奥である万人にとって
全く「同一の真の私」を映し出すことも可能なる鏡でもある
■根源が使われている統覚機能に現れ、統覚機能によって
知覚されている事の全ては、全ての統覚機能のことを見ている
全人類同一の「一つなる真の私」によって、見られている。
その個々の統覚機能の知覚の内容は、「同一の私」によって全て
悉く見られかつ観照されている。
■無明とは、熟睡時に於ける暗黒の状態でありその無意識の
状態のことである。(というのは統覚機能がそれ自身の内奥の
真の私と繋がっている管が詰まっていてこの内奥からの純粋
意識が流れていない状態だから無意識の状態なのである)
(この管の状態が良くなり純粋意識が統覚機能に届くとき)
無明が熟睡時にもなくなり熟睡状態でも目は開いている。
(この目とは頭脳の肉眼や霊的諸体の霊眼ではない、思考
ではなく、分離した私を含まない純粋意識のことである)そして
そうなったとき
その目は日中でも開いており、そこでは夢を見ることはない。
この日中と夢と熟睡時の暗黒のことをマーヤと見ている目とは
無明ではない目である。虚偽(マーヤ)を虚偽(マーヤ)と理解し
正見することが出来ているのは純粋意識の目である。
純粋意識の目がこの統覚機能に出現したのである。
鏡を通じて真我が輝きだしたのである
■統覚機能(個別的な霊魂)とはマーヤから生じたものであり
マーヤの演技である。真実の目が目覚めたときには統覚機能
もなく、統覚機能である分離している目である分離知覚もなく、
本来の非分離の知覚がある。そのときは個別的霊魂はない。
本来の全体でただひとつの魂がある。マーヤが本来の姿を
顕し、現象に遮られて見えなかった実相が顕現する。
■これらの目の変容を見ているものが真の私である。
この目の変容とは統覚機能である個別的霊魂に
起きている事であるが、個別的霊魂によるのではない。
■この統覚機能という個別的霊魂の知覚とはマーヤのであり
このマーヤのとは「自分が行為している」と錯覚していることであり
知覚している者と知覚されている対象が別々に存在している
という錯覚である。これらはマーヤの分離知覚である。
それはまたマーヤである時間と空間の感覚でもある。マーヤとは
肉体を自己として実感する五感であり、統覚機能の内奥では
全てと分離していないのに「私のもの」「私は○○」と自己を
肉体に限定してしまうのである
■自分が「見ている」のではなくて、「正しく見ること」の「目」
がこの統覚機能に発生したのは
統覚機能の内奥と統覚機能が正しく繋がったからである。
それゆえに正見の目が発生したのである。(もしくは内奥
の目と繋がった)、統覚機能という個別的霊魂である「自我の
目」が変わったのでない。新たなる目が誕生したのである。
それは「自分が」「私が」「私によって」ではない。根源がマー
ヤを通じてその変容を起こしたのである。
■自分の見ている段階が変わったから進歩したのではなくて
このマーヤをマーヤと見ることの出来る目そのものがマーヤ
によって生じ、起ったことによってそして変わっていったのである。
統覚機能の内奥から、魂の内奥からによって
私が変わることが生じ、そしてそれに伴い見ることの出来る
目が生じてきたのである、そしてその目が虚偽を虚偽と見始
めるのである。