母なる根源とは「愛」そのものである
母なる根源とは「愛」であり
「愛それ自体」だと言われている
それゆえに現象界で自らを表現されているのだ
その愛とはキリストが自ら示されたことであり
それは「友のため命を捨てること」である・・と思われる
さて
このプロセスを異なった観点から見てみたい
この観点とは魂と自己意識と頭脳との関係からである
魂の統覚機能とは
精妙体の松果体を経て
大脳の前頭前野にあるエピソード記憶領域に
縛られて結合しているために
即ち、脳内で同様の経路で起こっている事がらを
統覚機能の知覚は、私ではないものを私だと思い
違いしたのである
即ち
大脳は根源から潜在意識領域を通じてシナプス・ニュー
ロンを経て発生している選択や意志や行為や思考などを
受け取っているが
脳の機能として単にそれらの思考や行為が受け取られ
ているだけなのに
脳内では、その思考や行為の主体だという自己意識が
同時に生み出されている。即ちエピソード記憶である。
そのようにして脳内では
その思考の記憶が蓄積して「自分が行為している」と
錯覚する個人(エピソード記憶)が創出されているのだ。
この私が意識的自己と云われている私であり、統覚機能
によって「私」と取り違えられている「偽物の私」である
通常の生活に於いては、私と自意識し、意識されている
主体の私とは、殆どがこのエピソード記憶という意識的
自己を指していることだろう
通常の私達には統覚機能の目が充分に機能していない
ので正しく見ることが出来ず、意識が混濁し、且つ搾少して
いるので、私ではない私を私と取り違えてしまっている
(※勿論その目とは、霊眼や超知覚も統覚機能の目
ではない。それは単なる精妙体の目に過ぎない)
これを書いている私も統覚機能の私ではなくて、意識的
自己であるエピソード記憶が思考し書いているわけだ
この意識的自己が意識し且つ意識されている対象の私は
統覚機能の自己でもなく、又その魂の内奥の私でもない
単に記憶が作動している結果であり「私と言う観念」である
脳内でマインドが機能しているに過ぎない
魂からの《統覚機能が前頭前野に結合している為》に
統覚機能がこの意識的自己というサムスカーラである
継続する記憶の自己のことを《自分自身》だと錯覚し
たのであるということであろう
この統覚機能の一部は脳と結合しているので
夜は眠ってしまうし、夢から覚めては夢を見ている
「記憶の自己」のことを自分が夢を見ているのだ
と勘違いしてしまうのである
夢を見るのは記憶である意識的自己であって統覚機能
の私ではない。
従って、このような段階の意識状態では、日中でも
脳内はエピソード記憶である意識的自己がこの統覚
機能を覆っているので、この意識的自己の私を「私」と
取り違えてしまう結果となるのではないか。
即ち「行為」「出来事」「意志」「選択」「思考」「感情」
「欲望」「衝動」「記憶」「心象」「記憶の反応」「自我」
「自己意識」「観察者」「観察される対象」など
を
この前頭前野若しくは前頭葉部位に結合している
魂からの統覚機能が脳内に起こっている以上の「この心
が引き起こしている現象」を自分自身と取り違えてしまった
のだ、そして
自分が為した
自分が選択した
自分の意志だ
自分の自我だ
自分の肉体だ
自分の欲望だ
自分の意識だ
自分の心だ
自分の心象だ
自分の記憶だ
自分の人生だ
自分がこの人生を生きている
自分の子供だ、または自分の親だ
(子供や親は自分のではなくて、「根源の母なる肉体」
の子供や親であり自分のではありません)
と錯覚してしまったのだろう
というよりも錯覚してしまうように
母(根源)によって仕組まれているのだろうか
そしてこの錯覚に基づいて統覚機能が起こす反応が
つぎつぎと想念形態・エレメンタルを生み出して
あの意識的自己に追加され強固なものにしてしまい
更なる混乱を引きおこすようになり
そのようにしてこの現象界が回転していくように、
輪廻が続いていくように設計されているのだと
結局のところは
この魂が松果体を経て前頭葉に投射し結合している
「統覚機能」というものが
前頭前野のエピソード記憶と全く同一化し、反応して
さらに意識的自己を形成してしまっていることが
幻覚と錯覚と混乱の原因だと思われる
この混乱からの脱出は
母なる根源からしかおこりえようがないことだ
では母なる根源が願っていることとは何だろうか
母なる根源はどうしてこのような複雑なことを為さって
いるのだろうか
・・・それはキリストを見れば一目瞭然ではないか
「愛」
それは「愛」なのだ
「愛が現れる」
「愛が自らを示すこと」ではないか
この統覚機能である私達が「愛のため自らを捧げる」
ことによって
「友のため生命を捨てる」とき
嘘偽りのない完全完璧なる自己否定と全託が本当に
統覚機能に起きたとき
観照と静寂と沈黙を伴って「死」という解放がおこるのだ
と思われる
すべては「愛」が「愛」の為に「愛」を再体験し、再確認し、
再顕現し、初めから「愛」しかなかったことを認識するた
めではないのか
(※勿論この死とは肉体や精妙体の死ではなく「私という
分離している実体、分離を実感している私」の死です
生命である未知なる私は肉体の死には関係ありません
生命には誕生も死亡もありません、有機体ではないので
すから。生命は叡智であり愛でありハートから私達の
心臓を動かし、息をなさしめ、意識を支え、神経を支え
てくださっているのですから)