未知なる私
この私・意識的自己によって観察
されている私とは、いかなる私
なのでしょうか?
それは意識的自己である私、
すなわち意識があり意識して
いる「自己意識の私」、即ち対象
として観察されている私です。
それは心にほかなりません。
観察対象の私とはそれは一般的
には自我と言われている継続し
ている記憶の私のことです。
マインドの私、根源によって生
み出された、自由意志があると
思っている意識的自己の私です。
サムスカーラによって継続している自我です
では観察している方の私とは如何なる私でしょうか?
観察している方の私とは、観察者といわれている私の事ですが、
その観察者といわれ観察している私も、その観察者の私によって観察されている私(自我)も、同じ私です。それは共にマインド・心です、自我です。このことは明かです。
観察している私とは観察されている私です。
意識的自己である私によって、意識され観察されている私とは、即ち苦しんでいる私、恐怖に戦いている私、神経症の私、等々の私ですが、それらの私を見て観察し、意識し、知覚しているところの私とは誰でしょうか・・・・
その苦しみ、恐怖に戦く私が、その同じ私が、全く同一の苦しみ、恐怖に戦く私を見ています。
意識的自己という記憶の自己が、この意識的自己にやって来ている恐怖を対象として見て恐れ戦いているのです。
その恐怖を見ている記憶の私こそ、そのやって来ている恐怖によって生み出された私なのではないでしょうか?
この私とは記憶なのです。記憶の反応なのです。
自我がすなわち自我を観察している私です。
恐怖がすなわち恐怖を観察している私です
自我が自己自身である自我を対象として観察しているに過ぎません。
自我の私が自我の私を意識し、知覚しているのに過ぎないのであり、自我を自我と見ているのは自我であります。
自我が自我自身を対象化して見ているのです。
記憶が記憶者を対象として見ているのです。
自我を抑え、自我を良くしようと、努力しているその私こそ、その自我です。
「恐怖に怯え、恐怖を感じている私」を見ている私とは、その恐怖を感じ、戦いているわたし自身であり、それはともに生み出された私に他ならず、それは脳が生み出した記憶の私(エピソード記憶)・自我ではないかといえます
ですから自我のことを客観的に無限遠点から見ているのは、同じ自我であり、この「観察者は観察される者である」とのことを、当の自我自身が見る事によって、自我の汚れが薄くなっていくのも当然でしょう。
自我が無限遠点から自我を非難なく判断なく見ることによって自我が自我から幾分かは遠ざかることになり
自我は浄化されていきますが、それでもはやりそれは自我に他なりません。その自我は浄化された自我ではあっても自我を観照している未知なる私ではないと思われます。
がしかし、この「観察者は観察される者である」ということを観察者がじっと静かに見ていることで観察者自身が意識の座から萎んでいくのではないでしょうか、自我観察によって自我が浄化されることで鏡を覆っていた汚れ(自我)が徐々に薄くなり、鏡(魂)が太陽(真我)の光を反射しやすくなるのだとおもわれます。意識の座がクリヤーになってくるのです
意識的自己が自ら静まること(停止すること)によって遠離することが、寂滅していくことが、静かにその意識的自己の私が鏡から離れて行くことが、起きてくるのでしょう。
即ち
鏡を覆っている意識的自己が透明化することが起こってくるのでしょう
「見るもの」「見られるもの」「見る事」というそれらを支えているのはマインド・こころに他なりません
このマインドの働きは、脳が支えているのではないでしょうか。そして脳は根源が動かし、条件付けておられるのです。
この「見る私」「見られる私」「見る事」とは「不二一元の未知なる私」による観照ではないものであり、それは思考に他なりません、その思考とは「熟睡を支えている生命である純粋意識」ではありません、脳と一体化して熟睡している意識です。
葛藤にもだえる私、煩悩を恐れる私、その悩み苦しむ私を無限遠点から見ているのは、「高次の私」ではなくて、その悩み苦しむわたし自身なのです。いやそれは悩み苦しむ私と言うよりも,むしろそれは悩み苦しみを生み出すこころそれ自身なのではないでしょうか。
けれどもその「観察者は観察される者である」をじっと見ている中に視座の転換がやってくるのかもしれません。偽りの主体から、徐々に主体の変換・変容が起こるのだといわれています。それは主体の死と再生というプロセスだと・・
観察対象の心とは、その対象の心を観察している心に他なりません。観察対象の私が観察している私なのです。観察者は観察されるものであり、「見ているわたしとは、見られているわたし」なのだと言われています。
「恐怖に怯えている私」とはその恐怖に怯えている私を見ている私ですし、それは双方とも恐怖自身であるのは間違いありません。こころが見るものと見られるものの双方を生み出しているのです。恐怖とは心が生み出しているのですから、それは心なのです。
「恐怖という心」が「恐怖に怯えている私」と、その「恐怖に怯えている私を見ている私」の双方の正体ではないでしょうか。恐怖が鏡である意識の座に出現しているだけではないでしょうか
「恐怖を見ている私」と「恐怖」のそれは、ともにこころであり、マインドであり、根源が創造された結果なのだとおもわれます。
「意識とは私に押しつけられたあるものだ」とニサルガダッタ・マハラジはいいますが、この「心」というものが鏡という「意識の座」に押しつけられているのにほかなりません。
従って観察者も観察されるものも、鏡に写し出されている根源の映像であるこころ・マインドなのではないでしょうか
この意識的自己、若しくは記憶の私とは観察している意識や、観察されている意識であって、意識を超えている「気づき」というものではありません、これらはともに心であり、これらをあらしめている未知である真の私「未知なる私」ではないものです。この内部と外部を対象として知覚している意識は「意識的自己」という継続している記憶の意識に過ぎないものだからです。
自分の自我を主観的にせよ客観的にせよ観察している私とは、まさにその観察者によって「観察されている自我」そのものです、その自我を観察している私とは「観察されている自我」なのです
良くなろうとして努力している私こそ、その「良くなろうとしている私=良くない私」なのですし、良くないからこそ良くなろうとするのです。真我ではない私だから真我になろうとしているのです。真我はすでに真我なのですから。
だからクリシュナムルティーは「“なろうとする”ことは“在る”ことを否定する」「観察者は観察されるものだ」と言われました。
その「良くなろう」「実現しよう」などのなろうとする者は共にマインドであり、脳によって受け取られた意識の中身です、それは心そのものであります。
しかし、その心によって生み出され支えられている意識的自己とは「心を生み出し」そのようにあらしめ、脳を創造し、かくあらしめ、大脳を熟睡せしめ、心臓を動かし、呼吸をなさしめ、瞼を開閉し、腕を動かし、消化吸収ならしめ、DNAを創造し書き込み、行為して、意識を起こし、自我を用いて、演じられている「未知なる私」ではありません。
この観察者とは自我であり、現在の私、根源によって生み出され、使用されている「意識的自己」です。
現在の私・自我とは「行為していると思っている私」、「自分が生きていると思っている私」、「この私とは自分の私だと思っている私」、「私と言う観念の私」です。
自分とはマインド・心が生み出しているものであるにも関わらず、即ち、思考も選択も欲望も感覚も知覚も起こっているにも関わらず、自分が思考し、自分が欲望し、自分が恐れ、自分が悩み、自分が選び、自分が苦しんで、自分が感覚し、自分が良いことや悪いことをしている。私が行っている。自分が見て、自分が知覚しているとおもっている私。即ち継続している記憶である自我です。これがこの私すなわち根源が使われてる「意識的自己」に他なりません。
それ故に、この私とは「根源の映像」である私であり、「根源の指人形」としての私であり、「既に書き込まれている書物の中の登場人物」の私であり、「DNAや幾世にわたる記憶」としての私であり、「根源のロボット」としての私にすぎません。だから熟睡している脳の私なのであり、脳に熟睡を起こしているすべて一つなる一つであるいのちの私、熟睡をならしめている真の私、即ち熟睡しておらずその熟睡を見ている未知なる私ではないのです。
この私、「意識的自己」とは、今ここに在って、この「意識的自己」を生かし、かくの如くにあらしめている「未知なる私」ではありません。この意識的自己・自我が意識的自己・自我を観察し、そして根源による行為を注視しています。だがそれは気づきという「未知なる私」の直覚ではありません。観察者による観察に過ぎません。
この未知なる私とは、既知なる私である「意識的自己」にとっては知覚されず、観察されず、認識することもできません。なぜなら「意識的自己」・既知なる私が正しい自己観察の継続による浄化が実行されていないので、目に覆いが被さっているから鏡に未知なる私が現れないのです。
未知なる私が、もし支えてくださらなかったらば、この既知なる私は一秒たりとも生存できません。既知なる自我の呼吸をあらしめ、肉体を維持し、「受動的意識である自我」を支え、思考と感情を起こし、記憶の反応を機能させ、この自我の私をあらしめているのがこのほかならぬ「未知なる私」だからです。万人においてただ一つのいのちの私です。
既知なる私であるところの、この自然の一部である私・現在の私としては、根源そのものでもあり、根源によって引きおこされているこの起こっている事の全てを感謝を以て完全に全託・受容するようにしたい
起こっている事とは災難と幸運であり、良いことと悪いことであり、出来事の総てであり、行為である。災いでもあり、順境でもある。健康と病気であり、この自我の心であり、この意識であり、苦しみであり、恐れであり、失敗と成功であり、生と死であり、そしてこのわたし自身である
私達は鏡なのです。この鏡に観察者と観察されるものという心が、脳を通じて現れ、鏡を覆っているのです。私達は鏡であり心ではないのです。
私達は対象を持たない純粋主体=「鏡の内奥」なのです。
私達は肉体でもなく、感覚器官でもなく、感覚を受け取る脳内神経器官でもなく、神経の情報を受け取る精妙なる知覚体でもなく、その知覚体の情報を統括する統覚機能(魂)を使って分離なきあるがままを認識している私(未知なる私)なのです。
ただ現在のところはその統覚機能(魂)が「私と言う観念」に深く覆われているために統覚機能から出ている「現在意識の座」には未知なる私の至高の意識が届かないのです。
私達は脳に硬く結びつけられているので、私達ではない記憶と「記憶の条件反応」を自分だと思い込んでいるわけです。
そして私達・鏡を包んでいる心である観察者(記憶)が外部に対象を見て、自分が行為してる、自分の肉体だ、自分は個人で特別だ、自分の考えだ、自分の感覚だと錯覚しているのです。この錯覚する記憶とは私達ではありません
この記憶は私達ではなくて、私達を覆っている“自分は個人だ”と思っている「私と言う観念」であるに過ぎません。