行為に対しての二つの反応
起こっている行為に対しての反応は異なる二つの種類がある
日常生活の中での起こっている行為に対しての反応は二つの種類があるのではないか
通常は私達は自分が思考し、自分が行為していると単純にそう錯覚しているのだけれども
行為は思考や感情や出来事とともに源泉から起こっており
その行為に対しては同時に2種類の異なった反応が発出されていると言われている。
肉体や脳を創造し、生かして、動かしておられる大生命・根源が肉体や脳や意識を使って
行為し、感じ、願い、求め、思考し、五感し、知覚を起こされ、さらにそれに自分が行為し
ていると錯覚している記憶(自己自我)を使役して、神が幾度と続く人生を生きて自我を
演じておられるのであろうか。
ラーマクリシュナは次の様に述べている。
■おお神よ、貴方は行為者、そして私(※潜在意識にある記憶の私)
は行為者ではない、それが明知と呼ばれるものです。
①その起こっている行為に対して、記憶からの反応が続いて起こる
身体やプログラムされている脳の行為や思考は起こっている状況に対して自動的に反応
行動を起こしているのに、記憶は根源からの行為や思考が起こった直後に自分が決断し
自由意志で選択し、自分の意志で思考し行為しているのだと錯覚している。行為している
源泉が「私という観念の記憶」を使って錯覚を起こされているのだろう。
状況や出来事そして行為や衝動、欲望は源泉からプログラム(カルマ)に従って起こって
おり、記憶がその行為の後に「自分が行為している」と知覚し、行為を選択している。
■おお神よ、貴方は行為者、そしてわたし(※現在は眠った状態
で記憶と同一化しているたましいの私)は行為者ではない、
それが明知と呼ばれるものです。
②さらに続いてその起こっている行為に対して、たましいからの反応が起こる
肉体と同一化し、「潜在意識にある人格・記憶」と同一化しているところの「眠っている状態
のたましいからの私」とは表面意識のことであり、思考という記憶と一体化している意識・心であり、
この意識・心とは、本来は鏡の様に清浄で透明なのに「思考で混濁してしまっている心」のこと、
本来は太陽の輝く愛と感謝を写しだす鏡なのに記憶に覆われ汚されてしまったマインドのこと。
更にこのマインドは「自分が行為している」と錯覚しているその記憶と一体化してしまったので、
記憶に続いて「私が行為している」と錯覚し、カルマの鎖に縛られていく。
そして今度は行為を正当化したり、何でこのような行為をしてしまったのかと悔やんだりする。
起こっている行為に対しての反応、記憶やたましいの私、そしてその私の統覚、そしてその意識
さえも神が起こして為しているということでありましょうか?
ラーマクリシュナは起こっている出来事の後に形成された「私・記憶」も、「私達たましいからの私」
も、行為も思考もしていないと言われているのです。私達が思考・行為をしているのではなくて
本当は肉体や脳と同じように行為も思考も根源から生起しており、それに対して「私達の中に
ある記憶」が根源から起こっている行為や思考に反応し更に記憶を積み重ねていると言われて
いるのではないでしょうか?ですからラーマクリシュナはこの肉体も脳も、私・自我も記憶も統覚
機能も、表面意識も潜在意識もたましいも全ては神であり、神以外のものは存在していないと。
善悪の判断も、自他の区別や知覚も、敵味方の識別も、評価や、欲望や記憶も、そして恐怖
もその恐怖の認識も神の演技だと言っているのではありませんか?
全ては神であり、神以外にはいかなるものも存在していないと言っているように思えます。
以下ラーマクリシュナの言葉です
■神ご自身が、あなた(※現在は眠った状態で記憶と同一化し
ているたましいの私のこと)を通じて多くの仕事をするために、
あなたの中に、その自我意識(※潜在意識にある記憶の私の
こと)を残しておかれたのです。
あなたの自我意識(※潜在意識にある記憶の私のこと)・
その我性は誰ものであろうか?それは神ご自身のものである。あ
■それはあなた自身。人間の姿で、私たちのところにおられる
のは、あなた(神)ご自身である。
人間だと思われているのが、実はあなたご自身である。
本当は、あなたというものは、あの至高のブラフマンである。
■人間に、そして、すべての生き物にあらゆるものになってお
られるのは、その至高のブラフマンだけです。
■あなたが、知っても知らなくても、あなたは至高のブラフマ
ンです。私は、たとえば神ご自身が、聖者の姿をした神と同
じように、詐欺師の姿をした神、悪漢の姿をした神になって
おられるのを、知っています。あらゆるものは神なのです。
■あのお方が、瞑想をさせることによって、人は瞑想をするこ
とが出来るのです。
■人は純粋精神によって動いているのです。
その純粋精神によって、非精神的物質に至るまで精神(有実
在・知叡智)になっているのです。
その純粋精神によって手も足も、身体も動いているのです。
人は身体が動いているのだと言いますが、
しかし
あのお方(神)が動かしておられるのを知らないのです。。