自己想起
自己を想起することの重要性を多くの先達が説
かれている。自己想起とは真実を正しい観念で
もって正しく思う事、正しく信じることでもある。
また、自己ではないものを誤って自己だと想う
ことの危険性もまた教えられていることだ。
私達の社会常識では自己とは意識されている内容であり
、既に説明の不要な先験的な実体として「私」
として捉えられているので、今更何で自己を
想起するのかと思われることであろう。
私達はよく分からなくてもなんとなく漠然と自我を自己だと錯覚し思い込んでしまっているのである。
しかしそのマインドによって思考され、意識の主体とされている自己とは、果たして自己ではなくて
思考者、行為者、知覚者、体験者として現れている「私と言う観念」=心ではないだろうか?
通常の私と思い込まれているのは「対象知覚という分離して知覚」をしているマインドなのではないのか、
マインドが自身を主体と客体に分離して、自身のマインドを主体と対象に分割して見ているのではないか。
本当は自我とは全く自己ではなく、その自我である観察者とは観察されている心が生み出しているもう一つの
観察されるものの別面なのではないか、従って世界と宇宙と大自然があるがままに在るのとおなじく
実際には自然と同じく私達の私も、肉体も、私と言う観念も、観察者も、行為者も、知覚者も、体験者もその起
こっている事の一部なのではないか。私が生きているのではなくて、生きていることが起こっているので
はないか。
私・自我はその起こっている事の一部なのではないか。私自我は脳の条件付けの記憶の反応ではないか
そして魂はその自我を自己と錯覚しているのだ。
それ故に
自己ではない「私と言う観念である心」を自己ではないと想起することも
これまた正しい自己想起の一つであるとおもわれる。
自己ではないものを私ではないと否定することによって自己である私を自己想起する必要があるのだ
自己とは思考や「私と言う観念」などの心ではないのに感覚等との同一化によって「他人は他人で私とは別だ」
「私は私個人であり、私は個別の魂であり、私が行為している、私は私だ、私が悟るのだ」などの心である私と
言う観念に覆われているので全体そのものである魂は自己を想起しなければならないのだ。
そしてその魂の内奥とは全てが一つなるわたしであり、そのわたしとは個別ではなくて全体なのだとハートで
思うべきなのではないか。
全てが全てにあるのだ。実際には個別の魂や、個別の自我は全くおらず、それらは根源の演技なのだ。映像なのだと。
ラーマクリシュナが真の私を知覚するために根源は自我を残しておかれる・・と言っている自我とはこの魂の事
であろう、この魂の意識が熟睡時の意識状態であり、魂の表層のレベルに於いては未だ私達の目が醒めていないので
夜、ベッドに入って眠りにつき心やマインドや思考という二元分離の意識が魂から離れて、知覚するものも
知覚されるものも知覚されない状態を「私は何も見なかった」イコール熟睡と捉えてしまっているのだ。
その私達の現状こそラーマクリシュナのいう、その所謂根源的な自我=魂が、内部の非分離の純粋意識と同調
している段階ではないと言うことを明らかにしているのではないか。
夢見時や日中の殆どの意識はこの魂の分離知覚に捉えられている「思考や記憶が生み出している幻影の私=人格」
の私であり、それはまったく「鏡である魂の私意識」ですらない質料なのだろう。
で、この魂の私に対して聖賢達は内部である静寂・沈黙を見よ、その自己を想起せよと言われているのであって
それは記憶の私や記憶の反応の私に対してではない。何故ならそれらは心でありやって来ては去る時間から
構成されている質料であるものだからだろう。
では正しい自己想起とは何か
日中の主体と対象に分離している思考や知覚とは真の自己の思考や知覚ではない。それこそがマインドである。
肉体や諸体との同一感覚や、その身体を経由して知覚されるそれらの想念や感覚や思考こそが「自分が行為し
ているように思っている」真の自己ではないものである。
視覚や超視覚はそれぞれ肉体のそして霊体の知覚であって自己のものではない
自己にはそのような分離している知覚や、思考はないので、あるがままをあるがままに見ているのだと言われている。
夢を見ている知覚は、その想念と思考の記憶の反応を主なるものとしており、それが昼間も続いているのだと。
それは自己のものではない。その記憶はマインドのものだ。それが各転生に渡り続いているのであると。
熟睡中はそれらの諸体及び諸体の脳の知覚が働いておらず、統覚機能が何も見えていない状態なのであるが
それは魂が自己ではないもの(マインド)の一時的な不在の状態を、対象が無いので何もないとしてし
まっている状態であり、真の自己は熟睡中でも見ているのだと言われる。真の私は熟睡中でも思考なく
見ているのだと。
だからそれ故に、真の私はそのように思考なく、自他の分離なく見ており、その時空を超えた不動の中で、
絶対の静寂で、溢れる愛をもって観照しているといわれる。
だからその真の私に焦点を合わせて、全体である空間である私を自己想起しなさいと言われるのである・・・
これらが正しく自己を想起することに他ならないのだ。
自分が行為していると実感している私とは自己ではない、それは私と言う観念であると。それは私が俺が・・
私のもの・・私の心、私の知覚、私の記憶、私の魂といっている心なのであり、その私はわたしではないのだと。
その心とは自己ではなくて脳の条件付けによって発生した思考の記憶であり、その反応だ。
「見られている対象を自己とは異なるもの」、「私は他人ではない」「他人とは私自身ではないもの」
「対象は自分自身ではなくて汚いもの」と、嫌悪しているものだ。それは思考であり、マインドだ。
もし自己であるなら、心ではないので、心を対象化してみることはせず、見るもの全てに至聖なる愛を感じ、
全ての中に全てを見ていることであろうし、全てに愛と慈悲と至福を実感していることだろう。
全ては完全完璧であり、あらゆるものの中に驚くべき美しさと、躍動する新たなる生命と、限りない愛を実感
していることだろう。
そこには相対を超えた「分離している私がいない至福」と、それに伴う秩序と、思考のない静寂を実感
していることだろう
だからこそ、私と言う観念と自己同一化している間違っている自己想起を避け、真実の自己に対する正しい
自己想起が求められているのである。
では正しい自己想起とは何だろうか
正しい自己想起とは以下のようなものに思えるのだが・・・
『私は肉体ではない。私は諸体ではない。又その諸体の行為でもない。それらの個人や個別の魂は根源が
それを使って行為しておられ生きておられる。根源は何億という自我を使って演じておられる。
この肉体も、諸体も、心も、その行為も根源の用いられている聖なる道具であり起こっている事である
私は思考ではない、想念ではない、マインドではない。それらの心とは根源からの聖なる映像であり起こっ
ている事である。自我は起こっている事であり。個別の私も個別の貴方も同じ一なる根源の演技である。
私は感覚ではない、私は知覚ではない、私はそれらを分離して知覚している統覚機能ではない。それらの知覚は
根源がこの統覚機能を通じて絶対認識している現象界での媒体であって知覚は私ではない。
私は私と言う観念ではない。私は自我ではない。私は個人ではない。私は個別の魂ではない。
それらはマーヤであり、私と言う観念を通じて根源がマーヤとしてあらしめておられるのである。
私は私であるところの魂の内奥に実在している、熟睡を観照している普遍意識であり、それは万人が同じだ。
全てと一つであり、「見るものは見られるものである」と実感している非二元・非分離のあるがままであり
全ての人と分離が出来ない一つなる意識である。個人の魂や個人の自我とは自己ではない、ここにあるのは
実際は一つの意識である。
わたしは過去現在未來、此処やあそこにという時間や疑似空間に縛られいない絶対空間であり純粋空間その
ものである。
私は魂の内奥の私であり、次元と空間と時間を超越し、万物そのものであり、慈悲であり、生命であり
絶対空間であり、平和であり、沈黙であり、美であり、至福であり、充足であり、喜びである。
それは思考やマインドによっては把握できず、純粋なる透明になったハートによって知覚される私であり
私はあなたであり、あなたは私であり、わたしはそれであり、あるがままである』
・・・と自己を想起すべきであるのではなかろうか。