あなたは世界だ
あなたは世界だ
これは有名なクリシュナムルティーの言葉である
この言葉は詩的な感動でも、概念的な言辞でもない。
実際の彼の内的状況を示している、彼の実感なのだ。
彼は純粋意識として語ったのである。
彼は個別の魂ではなくて全体である意識として語っている。
その純粋意識が世界を成立させ、マインドを成立させ
行為を成立させ、自と他の二元分離を成立させている。
現象界の全てを成立させているのが純粋意識である。
二元分離を生み出しているのが純粋意識である。
純粋意識がマーヤを生み出したのである。
だから純粋意識は世界そのものであり、
世界は純粋意識なのだ。
純粋意識がなかったら、
一瞬たりとも、この世界は成り立たず
あらゆる次元の世界も、魂の私も、それらの分離している
偽物の私も存在していない事だろう。
「自分は世界ではない。自分とは世界を構成している一部だ」
と実感し、世界のことを“自分と分離している対象の世界”として
自分と世界は別々だと実感し、自分は世界とは別だ、世界や宇宙
で起こっていることは私の外部で起こっていることだと、そのように
世界と宇宙を自分自身ではない、宇宙は自分の対象であると見て
いる主体とは真の主体である意識ではない。
その実感は「自分を肉体と同一視してしまっている想念」の実感であり、
心であるところの私と言う観念が起こしている虚偽である。
宇宙を内部の宇宙と外部の宇宙とに分割して見ている私とは分離した心であって、
その私とは真のわたしではない。私という観念にしか過ぎないことだろう。
この分離した心が、自分は世界ではなく、また自分は宇宙ではなく、この肉体なのだと実感しているのだ。
その、思考とマインドと心が、思考とマインドと心で錯覚を知覚しているのだ。だから決して真実を見ることがない。
その分離した心こそが、「自と他を分けている私という観念」だ、そしてその観念は真の私から立ち現れているというのだ。
それらの私は、決して真のわたしではない、集合意識や潜在意識ではあっても、決して純粋意識のわたしではない。
もし、わたしであるなら思考と思考の隙間を見ていることだろうからだ。
クリシュナムルティーは私達には思考無しで見ることが出来るからこそ、私達人類に思考無しに見なさいと言ったのである。
(私の友人でクリシュナムルティーは不可能なことを言っているといって亡くなった人がいるが、クリシュナムルティー
は不可能であれば何故毎日、思考無しに見ることを言い続けたりするのか・・・私の友人は・・だからKを信じれなかったのだ)
思考なくして見る事、即ち私なくしてみるとは至ったり、獲得したり、努力で到達することなのではなくて、この自我に起こる事柄
なのである。繋がると言うことはするのでもなく為すのでもなく、それは根源から起こるのである。
低次の自我が高次の私と繋がると言うことは低次の自我の努力で為すことがらではなくて、高次の私から起こるのである。
だからもし、思考のない本当の目が見ているのなら、思考の隙間を見ているのだ。
もし、本当の目が見ているのなら、その目は基底の目であり心の基底である意識が心の基底である意識を見ているのである。
その目にはテロも悲惨もなく戦争も飢餓もなく、私と貴方の分離もなく、全てが一つで完全完璧である実相が顕現していることだろう。
従って、実際的には、その思考の隙間を見る事が起こる事によって、その純粋空間は拡がっていくのだと言われる。
その為には、まず初めに思考と心が完全に透明になり、静まった沈黙の現在意識でもって
心や思考や「自我という私と言う観念」を受動的に凝視しなさいと魂の私に対してクリシュナムルティーはいうのだ。
だからこの受動的凝視は起こっていることがらであり、行為ではなくてやってきている事である。
そして、そこでの思考なき受動的凝視のその目には、
見ている私もなく、又見ている対象もない。二元分離がないからである。
見ることだけがあり、「自己と世界の分離がない目」=純粋意識しかないことだろう。
それが、あのクリシュナムルティーの言った「私は世界」であるとの純粋意識の宣言なのだ。
世界や宇宙を自分ではなく対象として見ている私とは、わたしではない。それは思考なのだ、「私と言う観念」の私なのだ。
世界や宇宙を分離して見ている自分のことを私だと実感しているのは、それは思考なのだ。「私と言う観念」の私なのだ。
見る対象があったり、敵や味方が見られたり、善と悪があったり、愛したり憎んだりする対象があるのは分離している私である。
またその対象を見ている私、その私がその私であるその対象を見ている・・思考の私、その私が残存している限りは
そこに虚偽がある。それは嘘をついているのだ。世界は私ではないという虚偽、自と他と分離、見るものと見られるものの
分離という虚偽が残っているからだ。
自我を見ているのは自我であり、思考や心を見ているのはその思考や心である。
対象を見ているものとは真のわたしではない。
真の私とは心ではないと教えられている。
真の私という純粋意識は全てに自分自身を見ており、見ている私と見られている対象との区別はない。わたしとはそれなのだから。
だからそれゆえにクリシュナムルティーはその根源の基底の意識から
「本当に見ているときには「見ている私と見られている私」の区別は解消し、純粋なる真理だけがある」
「世界は私である」
と彼は力説されたのである。