外部と同一化してはいけない
(わたしではないものをわたしだと錯覚してはいけない)


外部と同一化してはいけない・・と教えられている

わたしではない外部を、わたしと取り違えてはいけない・・と教えられている


では、内部ではない外部とは一体何んのことだろうか?

それは起こっている事がらではないだろうか?

それは真っ白いスクリーンという意識の座に来ては去る種々の観念・映像のことである。意識の座である鏡の内側が内部であるからだ。

その主なるものとは、「私という観念」であろう。私と言う観念とは外部であり、起こっている事であると。それは内部ではない。

私という観念は自身が根源と分離していないのに、分離していると錯覚している無知である。

この無知が自と他を分離して知覚し、行為を自分が為し、同じように他の私もその「他の私」が行為していると錯覚し、

既に至っているのに至ろうとする「私と言う観念」である。


「自分は他人とは別である」、「自分が行為している」、「自分は全体と一つではない」、「自分は対象とは一つでは

ない」、「自分が肉体を持っているのだ」「私は肉体であり、身体だ」

という自己についての実感である。それが外部であり起こっている「私と言う観念」である。内部とは分離できない

主体であり、分離していない認識であり対象化されない意識であり。現在意識や潜在意識や自我意識や分離意識

を成り立たせている基底の純粋意識なのだ。


その内部、それは思考やこころによっては対象化されないし、知覚されないし、把握できない。内部とは

知識や言語や言葉ではイメージすることも出来ない。言語やイメージや言葉や心象や概念を超えているからである。

それがわたしであり、主体であり、私の内部だ。心とは内部ではなくて私の外部に去来しているものなのだ。

それゆえに主体と客体に分け、自と他を分離して認識している心・マインドとは主体ではなくて、知覚し、認識される対象なのである。

夢や熟睡や覚醒と同じく、その知覚し、知覚される自分とは内部ではないところのわたしではないものなのだ。

だからこそ、自分は誰それの子供として生まれ、過去世は誰それであったなどという、その、他と分離している自己・自分という実感こそが

その外部であり起こっているところの「私と言う観念」の中身であり、その観念と同一化してはいけないことがここで求められているわけである。

私という観念と、その観念それ自体から発する思考もまた起こっていることがらであり、この思考と同一化してはいけないと言われているのだ。

この「私という観念」が記憶となり、この記憶の反応もまた思考でありエレメンタルである。

だから記憶の反応であるこのエレメンタルと同一化してはいけないといわれるのである。



その同一化してはいけないといわれている、外部であり起こっている観念というものは具体的には何だろうか?それは

「自分は肉体を持っており、自分は他の人とは別の個人であり、個別の魂であり、他人とは異なっており、自分は自分の頭やこころで考えており、自分が願い

自分が欲望し、自分は進化の道程を歩んでおり、将来は神と一つになる解放の道を歩んでいる。自分は自由であり自由意志に基づき行為している」・・・・と

そのように錯覚している私という観念である。その「私と言う観念」とこの観念の記憶の反応こそが外部であり、起こっていることがらであり、それと同一

化してはいけないといわれているのである。



そして、その外部であり、起こっている私と言う観念とは、自分は独立している個人であり、この脳に起こっている記憶や肉体感覚や知覚や思考を自分自身

の肉体、自分の思考や知覚、自分の欲望、自分が行っている行為、自分の経験や体験だと思い込んでいるのだ。だがその体験や知覚もその知覚主体も

起こっている外部のマインドなのである。

この「私という観念」が、主体の一部である意識の座(魂)を覆い尽くしているのだ。


「起こっている事と同一化してはいけない」と教えられているところのここ意識の座で「起こっていること」とは私という観念だけではない。

肉体も、諸身体も、肉眼も霊眼も、肉体の感覚・知覚も、霊体の感覚・知覚も、肉体や諸体の行為も、個人の頭脳も、そしてその脳のさらにサーバー

の脳に繋がっているマインドも。マーヤとして起こっているし、その起こっている様に見えているのも、実は私というマインドが見ているからだ。

だからこそそれを思考なく、そのあるがままを見る事が起こったとき・・それは全てが完全完璧な愛であると言われているのである。

その思考なく見る事の中には、マーヤは本来の姿を現すのである。そのマーヤが愛だったのだ。

それをクリシュナムルティーは「あるがままをあるがままに思考なく見るとき、そこには愛しかない」

と教えられたのである。思考なく見るとき、行為は為されておらず、マーヤが本来の姿である愛となって姿を顕すのだ。全ては完全完璧なものとして・・・

この記憶の反応ではない「思考なき見」のなかに本来の姿を現すのである。それは内部から花が開くことであると教えられている。

そして、そのとき頭脳が作動して働いている記憶も、感覚も、知覚も、感情も、欲望も、イメージも、知識も心象や具象も、それが生み出す行為も

戦争も飢餓もテロも、内部と外部の分離も、外部であり起こっている現象なのだということの理解が開かれるのではないだろうか。



さらにまた、そのことを日常の意識との関係から見れば

外部である起こっていることがらとは、朝ベッドで熟睡から目をさました「私と言う観念」の知覚であり、その「私と言う観念」は蓄積されて記憶(自我)

となるので日中の覚醒時の意識とは、記憶であり、記憶の反応でもあり、それが朝、ベッドから目をさました肉体と同時に作動し出したのである。

そしてそれは夜になると夢を見る、その私と言う観念・自我である記憶の反応は夢と表現され、その夢の情報が脳に伝わり、夢として知覚処理される。

そしてその記憶は夜も肉体の脳と結合しているので大脳が眠るときに一緒に熟睡してしまうのだ。(肉体の脳と結合していないときには

その記憶は、自身の記憶の反応の中で夢を見続けている・・そしてこれが死後の意識状態だ)この記憶が分離した個人を生み出している自我

というものだといえる。

だからこそ

このやって来ている思考や出来事、行為並びに記憶(自我)の反応とは外部という起こっていることがらであり、この鏡にやって来ているマインドや記憶

(自我)の反応とは同一化してはいけないのだとそのように仰っておられるのだ。


更に起こっていることがらとは、この単体の脳だけではなくてネットワークの脳からも受け取っている知覚、思考、欲望、想念、こころなどである

のではないか



その起こっていることがらは分離している統覚機能の知覚によって歪曲されているのであり、見るものと見られるものに分割されてしまう。

実際には起こっていることがらは完全完璧なのに、統覚機能である魂がそれを自他に分離して歪曲し、事実が見えなくなっているのである。

五感や六感が中核となった肉体や霊体の知覚が自分自身のことを「自分は他人とは分離している個人だ」とその観念を更に強固にしている。


だがその思考・自我とは外部であり起こっていることがらであり、その思考とは、思考自身は全人類が全く同一の同じものなのにその思考が

(脳の記憶である思考自身が)これは私の思考だ、それはあなたの思考で、私と貴方は別々なのだと思い込んでいるに過ぎない。

がしかし、それらのマインド・思考とは全人類の全てが同じように分離しており同じように我性で構成されている。

思考が個人感覚を生み。思考が記憶となって私の思考とあなたの思考とは別々で特別だと考えており、自分と他人は分かれていると実感しているが

思考とは全人類がともに同じ共通の思考であり、全人類が一つの同じ思考であるのだ。

思考が私と言う観念であり、「わたしという分離した個人」という錯覚の実感を生み出しているのだ。


そして起こっている事とは思考だけではなくて「こころ」はさらに起こっていることがらの最大のものであり、マーヤと言われているものである。

その「こころ」が「見る私と見られる対象の二元分離」を引き起こしている。本来は主体と客体は一つで分離できないものであるのに

それを見る私と見られる対象は別だと思い込んでいるのはわたしではないものだ。主体と客体は別々のものであると思い込んでいるのは「こころ」である。


何故なら肉体の五感を自分の感覚だ、私の内部だとその「こころ」が錯覚したからである。だから分離知覚される外部とは、統覚機能の錯覚の似而非内

部のことであり、その似而非内部とはわたしではない。だからその知覚し、知覚される内部とは外部なのだ。

外部である思考や知覚や心や、それらが生み出している自我とは、純粋意識に比較して非常に遅く、粗く、脆い構成だと言われている。


極小と極大、内と外、内部と外部、自己と世界、私と貴方、宇宙と素粒子、過去現在未來、此処と全てというものを二元に分離し

分割し分けているのはマインドである。

このマインドこそが鏡である意識の座(統覚機能)に起こっている外部であり、その外部を内部と同一視してはいけないといわれている。

思考や心は起こっていることがらであり、外部でありわたしではない。これらのマインドの私と自らを同一化してはいけないと言われているのである。

知覚し、知覚されるものである私とはマインドであり、「こころ」が生み出している「わたしではない私」であり、それは外部であって内部ではない。

真の主体であり純粋意識である自らを通じて、このこころという内部と外部、宇宙とマーヤを写し出しているのが統覚機能(魂)だ

この統覚機能である魂に対して、魂の内奥は分離していないので、個人の魂というようなものはないのだ。魂の内奥は一つなのであると

その一つである意識が真の私だと、わたし本来の姿に気がつくように、そのように言われているのである。


それゆえに外部である起こっている事と同一化してはいけないと言われるのだ。知覚し知覚されるものはわたしではない外部なのだと


だから内部・内奥は起こっている事ではなく在るのだと。それは自他に分離していないひとつなる純粋意識であると。


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