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見るものは見られるものである


「見るものは見られるものである」と、それである純粋意識の「見」の状態は常々云われている。

だから、本当に見ている主体とは「私と言う観念」ではなく、本当の私である。

(人類の見解や考えや見る事とは、脳の条件付けから起こっている脳の思考であり、知覚であり、見る事とは違う)

正しく見ているのは本当の私であって、この「私と言う観念」の私は、その真の私が見ている事を知らないのだ。



個人や統覚機能ではなくて、「見るものは見られるものである」といっている普遍なる私

その思考ではない私こそが、意識である本当の私なのである。

それは全体の生命であり、脳を生み出し、呼吸し、血液を循環させ、脳を機能させている私でもあることだろう。

だが人類の意識とは、脳を生み出して、脳を機能させている意識ではなく、脳が機能した結果変換された思考である

に過ぎない。

脳が条件付けられた結果、脳から出されている「個人・私自己」という考えであり、それは意識ではない。私ではない。

それは生命ではなく、呼吸でもなく、単に自分だと思っている記憶であり、頭脳に被っている「私と言う観念」である。

その「私と言う観念」が自分が生きているという実感を持って、行為している実感をしているが、行為しているのは根源で

ある。



‘見るもの’とは、全体であり、主体である私であって、脳を条件付けている「私と言う観念」ではない。

だからクリシュナムルティーのいう‘見るもの’とは脳の結果である思考には関与していない。

見ている私とは、肉体でも、幽体でも、霊体でも、記憶でも、個人でも、「私と言う観念」でも、

統覚機能である魂の私でもない。それは集合意識でもない、巨大なるエレメンタルの私でもない。

それらは全て私ではない。

それらの私とは認識主体ではなく、根源が生み出した観念である『「私という観念」の私』である

その「観念の私」が魂を見て、魂は星の数ほどあり、真の私に帰還しなければならないと思うのである。

けれども、ここで非常に注意すべきは、そのように魂の事を「魂の内奥に戻らなくてはならない」と思うのは

決して魂の内奥の真我の意識ではないということである。

それは無知である「私と言う観念」が魂の事を推測しているに過ぎない。

魂自身であるなら、多くの魂は一つであり、真の私に於いて単一であるから、決して修行して真我に至ろうとは思わ

ない。

魂の内奥の真我に於いては魂達は既に一つであり、分離していないのであって、再統合しようとは思わない。

魂とは真の私の一部分である統覚機能という、知覚を統合している働きをしているに過ぎない。

その魂を再統合しよう、真我と一つになろうとしているのは魂ではなくて「私と言う観念」から生じている動きである。

だから、私とは魂の内奥に至ろうと願っている私ではなく、その動機を持って瞑想している私ではない。


その魂の内奥に至ろうとしている私とは、主体でもなく、呼吸でもなく、生命ではない。

魂の内奥の私は、至ろうとするのではなくて、既に至っているから、内奥に至ろうとはしない。「既に在る」からである。

ではその至ろうとしている私とは誰か?誰が真我に至ろうと努力し瞑想しているのか?

その瞑想している私とは「私と言う観念」に過ぎない。それは無知であり、「自らを知らない私という観念」である。



なので真の私ならば、決して自身で在る真の私に至ろうとはしない。既に至っており、私であり、主体であるからだ。

その主体とは見るものであると同時に見られるものでもあり、主体と客体に分離していない全体である。

全ての全てを自分自身であると見ている私である。


さて、そういうことであるから

私ではない私を、私だと思っているのは「私と言う観念」であり、記憶の私であり、根源の使っておられる自我だ。

即ち「自分が行為していると思っている私」だ。

真の私は、真の私を自覚しているから、自分は行為していないのだと言われる。またその実感がある。

が、マインドは真の私を知らない、従って、肉体と同一視しているからこそ自分が行為していると思っている。

統覚機能である魂からの発出した現在のパーソナリティーは、その記憶の私を、その肉体を、その身体を、その思考を

私だと錯覚しているのである。

そしてその錯覚している私こそ、根源の道具である自我だ。「真の私であるアートマン」ではない私である。

何故なら真の私であるアートマンはこの統覚機能という無限に近い数の魂を通じて

世界を顕現し、同時に認識しているから、といわれる。




肉体の眼球と視神経や網膜は形象視覚を脳に伝え、

脳はその映像を脳の条件付けに従って現在のパーソナリティーに伝え、この自我によって解釈され、認知され

現在のパーソナリティーの知覚は統覚機能を通じて真の私が認識している。

にもかかわらず統覚機能は自分が認識していると思っている。

けれどもそれは知覚を伝えているに過ぎない。

それを正しく知覚し、認識しているのは見るものである純粋意識であり、次元を超えている本当の主体である。

観念の私や現在のパーソナリティーは見ているのではなくて、視神経の知覚を通じてそれらを条件付けに従って解釈し

推測しているに過ぎない。

観念の私や現在のパーソナリティーは意識しているのではなくて、脳を通じて思考を受け取り、自らはその思考の

記憶から、想念や思考を、体内のDNAとプログラムに従って条件反射し、思考想念を発しているに過ぎない。

この現在の私のように・・・

なので、この主体である‘見ているもの’とは、「自分が見ていると思っている思考の記憶である個人、人格の私」や、

肉体の私や、動物魂の私や、継続し転生している自我である「私と言う観念」ではない。

またそれは統覚機能である魂でもないことであろう、

それは正しく「見るものと見られるものの分離なく」見ている私である。

それは自他の分離がなく、時間と空間の分離がなく、内部と外部の分離なく「私はそれである」と見ている私である。




クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」という云う言葉は

その純粋意識、次元を超えてあらゆる次元空間に遍在している意識そのものを指して「見るもの」といわれたのである。

その見るものとはアートマンであり、見られるものとはアートマンであるブラフマンである。

この‘見るものが見られるものである’の状態であるところの、真の私の目の中には対象が無く、全てが分離しておらず、

自他は一つであり、世界と自分は一つであり、宇宙と私は分離していない。

従って、そのようであるので非二元といわれており、「見るものは見られるものである」といわれている訳である。


その私こそが私であり、自分は世界や宇宙とは分離していると見ている目は、肉体を自分だと錯覚した「私と言う観念」が

そう思い込んでいるのに他ならないことだろう

その「私と言う観念」が身体に入って、自分は個人であると錯覚するように、このシステムが創られているわけである。

そしてその錯覚が、魂に取り込まれ、魂からの現在の自分が「これらの私が私だ」と信じ込むことによって輪廻のバドルが続

いているわけである。



個人や人格、他と分離している私、輪廻転生している継続している私とは、「私と言う観念」を生み出している根源の

最高傑作であり、根源の演技に他ならない自我である。

実際には‘この自分という、他人や宇宙の万物と分離した実感を持っている私’なるものは、「私と言う観念」が身体

に入ることによって生み出された記憶に他ならない

この「私と言う観念」によって、実際には「見るものは見られるものである」であり、内部は外部であり、私は貴方で

あり、私はそれであるといわれているのに

この「私と言う観念」が、魂の目を覆っているが為に統覚機能である魂が、内側を見ることを忘れたのである

それは、魂自身が内側を見ないことから生じている。



その目とは、その私とは、純粋なる空間そのものの意識であり、遍在し、内部と外部に分離しておらず、自他に分離して

いない至高の意識であると云われる。


目を開こうと、真我に至ろうと必死になっているこの私、色々と瞑想し、修業し、グル遍歴を続け、何とか覚醒しようと努力している

私こそが私ではない、思考の記憶であり、「私と言う観念」であり、根源の演技している、操り人形であり、指人形

なのである。



この内部と外部に分離し、他人と分離し、肉体と同一化している私、悟ろうと必死に階梯を歩んでいる私こそ

思考の記憶であるこの個人・人格であり、「私と言う観念」であり、私ではないものである。

なぜなら、私とは、真の私に至ろうと足掻いている私ではなくて、私は既に私であり、私は分離されない意識である

ことに気がついてるからだ。「気づきが、気づきに気づいている」のであり、思考が、気づきに気づくのではない。

思考は気づきを知らないからである。



悟ろうと、瞑想して、段階を上昇しているのは、意識である私ではない。それは根源が使っている自我だ

そのなろうとして藻掻いているのは根源の演技している自我であり、その私という自我は

神である根源が使っているのであり、使われてる自我が自らを使う事はできない。

使われている自我の私は思考であり気づきを知らず、意識を知らない。知るのは知っている真の私である。

自由ではない自由意志でもって「私は自由である、自由意志で行為している」と錯覚しているだけだ。

だがこの自我は、神の道具であるから必ず、親の元に帰るのである。



その道具である自我の私は思考であって意識ではない。意識は自由であり、肉体には縛られておらず

空間を超えており、私の内奥であり、貴方の内奥である。

だから、その道具である自我の私とは、私ではない。

私は見ているものであり、同時に見られているものであり、分離していない。

個人を自分だと思っている自我とは私ではない、それは自我であり思考であるからだ。



人類の常識が真実か?それとも、このように教えられている聖者達の教えが真実なのか?

この教えが真実ではないのか

それをそうではなく、自分は真の私ではないと思っているのは虚偽の観念が思っていることであり、

自分は自我だと思うことは、偽りを真実だと信じ込むことであり、虚偽を許すこととなるのである。



であるから

私とは「見るものは見られるものである」であり、遍在している意識そのものであり、

現在意識である現在の私や、思考や「私と言う観念」ではない

とそのように云われているのである。