行為が行為者を生み出している



(ある哲学者からの教えより抜萃)

行為が行為者を生み出している。

思考が思考者を生み出している。

経験が経験者を生み出している。

知覚が知覚者を生み出している。

欲望が欲望者を生み出している。

起きている出来事が「自分が自分の人生を生きていると思っている人格の私」を生み出している

瞑想が瞑想者を生み出している。

瞑想は私が瞑想しているのではなくて

瞑想が起こった結果、瞑想している私が生じているのである。

瞑想も、瞑想している私も、それらは起こっていることである。

それらは心を通じ根源から起こっていることである。脳を通じて受け取られている事柄である。

脳も,誕生も,死亡も、意識も,無意識も、覚醒も,夢見も,熟睡も、私も,あなたも,起こっている事柄である。私が起こしているのでは

なくて、起こしている為していると思っている私こそが起こされている結果である。

だから個人・人格とは全くわたしではなくて各身体と脳の結果に過ぎない。



それらの起こっていることの記憶が凝集して人格を形成している。

その人格とは、行為し、瞑想し、知覚している事が起こった結果生じている蓄積された「その心・マインド」の記憶の働きである。

瞑想も、行為も、思考も、知覚も、記憶の働きも、私・人格が為しているのではなくて、起っていることがらである。

その起こっている事の結果であるのが人格であり、あなたであり、起こっている事とは私やあなたであり、脳であり、身体であり、

行為であり、思考である。

だが人格は自我ではない。自我がつけている仮面であり、自我は「私と言う観念」である


だからこそ

「お互い同士が分離していると思っている私やあなたの自我」とは、

その起きている肉体や人格・個人を自分だと錯覚している全人類共通の「私と言う観念」の私である。

その私・自我とは「私という観念」の働きに過ぎない。この「私と言う観念の私」が真我に至ろうとしている私である。

だが私達、自我とは実は、個人ではなくて全人類で一つの「私という観念」であり、その同じ観念がここ脳で作動している。

現在意識の殆どは脳が受け取っている思考であり、記憶の反応という人格であり、

潜在意識領域においては、殆どがこの自我の状態や集合意識や心が活躍しているのである。

現在のパーソナリティーとはそれらの意識帯域の奥にあって、それらのマインドや心が流れているのを見ている鏡である。

この魂からの現在のパーソナリティー自らが、真の私が自分自身であることを気がつかなければならないのである



私やあなたという自我は、心である「私と言う観念」であり、全員が同じ一つの心である。

まったく全員が同じように、自分は個人で特別だ、他人とは違っていると錯覚している同一の心だ。総ての人は同じ同一の心だ

その人類共通の「私と言う観念」が、各個体の脳と繋がって、この肉体のDNAによって展開している思考や行為を見て、

自分が考えている、自分が行為し、成し遂げたと思っている。自分は特別だ、この心は自分の心だと思っている。

それが「私と言う観念」の自我の最大の特徴であり、全人類共通の「私はあなたとは別だ」「私が一番」「私が・・」「私の・・」と

全員が同じようにそのように信じ込んでいる錯覚している私である。

他人もまったく同じく、その同一の心なのに、全員が等しく私は他人とは違う特別な私だと思っている。

その「俺が、私は」とは、全人類が同一の「私という観念」であり、全人類が同じように、それと繋がり、それが脳で働いている

のである。だから自分は特別だと思うのである。だが自我は特別ではなくて、まったく同じ同一の自我なのである。


その「私と言う観念」もまた起きている事であり、私やあなたの自我が生きて、それぞれが個人的に生きているのではない。

起こっている結果(自我)には、その起こっている事(自我も含めて)は生み出せないのだから。私と言う観念も私と言う観念が

生み出したのではなくて、根源によって生み出され使われているものなのである。

この私やあなたという自我は、同一の「私という観念」の同じ姿であり、その「私という観念」は根源から生じている。


その「私という観念」に覆われているのが魂からの私であり、魂の一部の私である現在のパーソナリティーだ

脳の現在意識が眠りにつき、脳を覆っている、「私という観念」の自我から熟睡時には一時的に、魂と共に

脳を離れて、けれども再び又肉体に繋がれてしまうのが、この魂からの私、即ち人格や自我ではない現在のパーソナリティー

である


ここで

■脳を媒体にして、受信されたマインドが生み出している、その記憶である人格・個人(起こっている事柄)と

■「私という観念」が各個体の脳において作用している事で生み出されている我性としての自我(起こっている事柄を自分が為し

  ている)と錯覚している自我と

■松果体を経由して神経を働かしている魂からの私である現在のパーソナリティーと

を明確に識別する必要がある。

私たちの、この現在意識で作動しているのが、どの私なのかを自ら識別する必要がある

魂の内奥の私であるなら、既に目覚めており真の私であるので、決して目覚めようとしたり真我に至ろうとはしない。

至ろうとしているのは「私と言う観念」であり、この現在のパーソナリティーとは既に魂を通じて真我と結ばれているのに

到ろうとする「私と言う観念」を自分だと思ってしまうことは、真の私から離れて行く事であることに気がつく事が求められて

いるのである。



全人類共通の「私と言う観念」が自我を生み出し、その世界人類が同一内容の自我が分離を知覚している。

自分が肉体だと錯覚している。

自分は特別で、自分は他人とは違う心を持っていると、全員が同じように錯覚している。同一の同じ心だからだ。

その心である全人類共通の私と言う観念が「記憶の働きである人格のことを自分だと錯覚している」ところの自我で

あり、根源はこのマーヤを用いて夢を投影している。(この事柄を魂の内奥から見た場合は、夢は覚めて、全ては完全

完璧であることが自照される)

その自我を自分だと誤ってしまったのが魂からの現在のパーソナリティーであり、この現在のパーソナリティーには自分は

真我であることを思い出すことが求められているのである。


この魂からの現在のパーソナリティーが自分の本来の姿を無明である「私という観念」と取り違え、間違ったことが

大いなる錯誤なのである。全てを分離して見ている自我とは私と言う観念でありわたしではないのである。


そして無明という心が、全人類同一の「私と言う観念」であり、自他の分離を感じている全く同一の自我であって

それは私ではないことを明確にすべきである。わたしは至ったり、成ったり、実現したりする必要がない真我と繋がっている

魂の一部なのであるから、この現在のパーソナリティーは「私という観念」やマインドや心では決してないことを

思い出すべきなのである。現在のパーソナリティーが心やマインドをみて、自分とはその心やマインドだと思ってしまったのだ


心ではない意識のわたしであるならば、自他の分離などしていないので、一体であり、自他の分離を感じていないのである。

だからこの自他の分離を感じ、個人が瞑想し、行為しているという実感のある私とは、わたしではない。意識ではない。心である。

その意識ではない心が、筋肉反応を通じて表現しているキネシオロジーという現象とは、ある次元領域では有効ではあるが

しかし、それはその個体の潜在意識が浄化されている場合にのみ成り立つことがらであり、また成立しても成り立っている

こと自体が分離した二元の心の領域内のことであり、そのことを純粋意識の領域にまで拡大解釈してはいけない。



そして、それら二元領域の心である「わたしではない人格の私並びに自我」や肉体&肉体の行為が鏡という現在のパーソ

ナリティーの意識に去来しているのである。対象のある思考や心が鏡である現在のパーソナリティーに去来しているのである。

それら「自他に分離している私」とは観念の私であって意識ではない。わたしではない。わたしはこころではなくて意識である。


意識には自分の意識やあなたの意識という区別はないからだ。それは意識であるから全く一つなのだ。

それがわたしだからだ。意識がわたしだからだ。それにひきかえ、心とはわたしではなくて「私と言う観念」である。

鏡という現在のパーソナリティーにその心や「私という観念」が映っているので鏡が誤解したのだ。

私やあなたが怒っているのではない。怒りが意識の座に起こって、その怒りが「怒っている私やあなた」を生み出しているのだ。

   そして、それに対してそれらの集積した記憶である人格の私が、それら怒りに反応して怒りを抑えようとしている。

   さらに人類共通の「私と言う観念」の自我が、その人格や記憶の働きである私と同一化し、自分を良くしようと藻掻いている。

   それは人類共通の「私と言う観念」の自我が、それらの身体と人格を自分自身だと思い込んでいるからだ。

   その「私という観念」が全人類のそれぞれの個体の肉体を覆って、私は他人とは異なっていると思っている。

   そしてさらに、それらが魂からの鏡である現在のパーソナリティーが肉体を私と思っている「私という観念」を自分だと

   錯覚したのだ


私やあなたが恐れているのではない。恐れが意識の座に起こって、その恐れが「恐れている私やあなた」を生み出しているのだ。

   そして、それに対して、「私と言う観念」である自我が、恐れから逃げようとしたり、恐れを変えようとしたりしている。

   その「私という観念」は自分個人が恐れていると思っているが、その「私という観念」が恐れを本質としているから

   恐れているのだ。だからこの恐怖はこの特定の個人が感じているように全人類が等しく同じように感じている恐怖なのだ。

   恐怖は同じ心なのだ。この恐怖は魂からの現在のパーソナリティーではない。


私やあなたが食べているのではない。その食べていることが、起こって、「食べている私」を生み出している。

私やあなたが考えているのではない。その思考が、意識の座に起こって、「思考している私」を生み出しているのだ。

私やあなたが瞑想しているのではない。瞑想が意識の座に起こって、その「瞑想している私や私の瞑想」を生み出して

   いるのである。

私やあなたが欲望しているのではない。その欲望が、起こって、「その欲望している私やあなた」を生み出しているのだ。

私やあなたが苦しんでいるのではない。その苦しみが、起こって、その「苦しんでいる私やあなた」を生み出しているのだ。

私やあなたが知覚しているのではない。知覚が起こって、「知覚している私やあなた」、即ち知覚者を生み出しているのだ。

私やあなたが夢を見ているのではない。夢が起こって夢を見ている個人を生み出しているのだ。

私やあなたが熟睡しているのではない。熟睡が起こって個人的な熟睡者を生み出しているのだ。

私やあなたが人生を生きているのではない。実際には人生が起こっているだけで、私やあなたはいないのである。

私やあなたが行為しているのでない。行為が起こって、「行為している私やあなた」、即ち行為者が投影されているのだ。

私やあなたが出来事を起こしているのではない。起こっている出来事が意識の座に投影され「自分が起こしていると思って

 いるところの私やあなた」を生み出しているのだ。

身体や脳は私やあなたのものではない。この身体や脳は大自然のものであり、大自然が使用しているのである。私やあなたは

その身体や脳の働きの結果なのである。全く常識は事実に反し間違っている。

個人や人格とは起こっている大自然と現象世界の一部分である。人格とは起こっていることの一部分なのである。

個人は大自然であり、その大自然そのものである。大自然の一部なのだ。なのに個人が自分は大自然と異なると錯覚している。

生まれ死ぬ個人自身が、大自然という映画の映像の一部分なのだ。心こそが起こっている事である

これら外部と内部で起こっている事柄こそが魂からの現在のパーソナリティーという鏡に投影されている3次元的知覚映像な

のである。



この行為している私やあなたとは、これら一切をマインドなく観照しているわたしではない。

わたしとは、心に巻き込まれている自我や思考でなく、あるがままを見ている観照の見である。


私やあなたが観察しているのではない。(観察とは観照ではない。観照の中には私とあなたの分離はないから)

観察が起こって、観察対象と観察している私を、即ち観察者を生み出しているのだ。

観察者とは、「観察者によって観察されている対象」そのものなのである。観察者と観察される者は分離していないのである。

観察者が観察している対象とは、実は観察者自体である。それが心の実相なのである。

それであるのに、観察者と観察されている対象を別々のものに感じているのは「私という観念」であり、その観念の錯覚である。

それを観察者自身と、「観察者によって観察されている対象」を別のものだとすることは心が起こしている錯覚である。

それは同じマインドの両面である。相手を責めている(若しくは非難している)その相手とはまさしくこの私と同一だ。

心・マインドが観察者と観察されている対象との分離を引き起こしているがそれは同じマインドの両面である。



私が見ているのではない。見ることが起こっている。

これらの起こっている私とはわたしではない。

これらの私、この自他に分離した私とは、マインドが生み出している映像であり、そして、さらに、この諸身体の

記憶を「私と言う観念」である自我が自分と錯覚している。そしてこの「私という観念」を魂からの私が、自分と取り違えている

転生の度に、観照者である魂を覆っているのは全人類共通の「私と言う観念」である。


これらのことを思考なく観照している意識には

見るものと見られるものの区別・分離は存在していない。私やあなたの区別分離、此処とあそこの区別、最大と最小の区別

自我と真我の区別、始まりと終わりの区別、内部と外部の区別、過去現在未來という時間の区別はない。

これを観照している立ち位置では思考や心や、その思考や心が生み出した私やあなたという「私と言う観念」は

わたしではないものとしてハッキリと観られている。



意識の座(わたし)に、それらのマインド・心・思考は来ては、また去っていく。それらのわたしではない私は来ては去っていく。

が、しかし、去来している生まれ死ぬ私はわたしではない。また生死をしている私を自分だと思っている私と言う観念もわたし

ではない。私は心でもなく、身体でもないからである

そして、また生まれ変わり輪廻転生している私もコーザル体であってわたしではない。

この意識の座、観照の座の内奥こそが、わたしではないだろうか、

その鏡という現在のパーソナリティーには心が去来し、自我が去来し、人格が去来し、「私という観念」が去来し

記憶体の私が去来し、行為が去来し、欲望が去来しているが、それらは対象を持つものであり、客体であり、マインドである。

そのマインドとは対象が無い真の主体ではない。従って、この意識の座に去来しているのは、対象を持っている全人類共通のマ

インドである。それらのマインドの私とは、わたしではない。



本来の主体であるわたしとは、意識であって、去来する身体・出来事・行為・思考ではない。わたしは対象を持っていないからだ。

それらは起こっていることであり、出来事・物語であり、鏡の意識に来ては去っていく心である。

この心ではない意識とは、「全人類共通のマインドである私と言う観念」でもなく、自他の分離でもなく

思考に付随した「思考者」、行為に付随している「行為者」、知覚に付随している「知覚者」

恐怖に付随した「恐怖者」、尊大に付随した「尊大者」、欲望に付随している「欲望者」

心に付随している「私」ではない。

わたしは意識であるからだ。



だから、わたしとは意識の座の奥に在るわたしであり、鏡の奥であり、その意識である。

意識である鏡に来ては去っていく質料のあるマインドとはわたしではない。心はわたしではない。



私やあなたという思考が、思考なく観照されているとき、思考が生み出している思考者は思考と一つになっており

思考は「思考者+思考」として意識に来ては去っていくところの質料として識別されている。

そのことを観照しているのは意識であり、そこには限りない愛と至福がある。

思考が生み出した私とは、そこにおいて、わたしではないことが理解される。



なぜなら、それらの私とは意識ではなく、マインドであり、記憶であり、主体と客体の二元に分離しているからである。

それらの私とは対象を持っている質料であるからだ。又は質料のある精妙なる身体であるからだ。

わたしは対象ではなく、思考ではなく、心でもなく、対象を持っていない主体であり、対象化されない。全体であるからである。

わたしとは、知覚や心やマインドの対象ではない。わたしには対象がないからだ。

逆に、知覚や心やマインドこそ「個には分離できない主体」によって、思考のない非対象のなかで観照されているものである。


わたしには対象はない。対象を観察しているのは心であり、マインドであり、思考であるからだ。

わたしは対象を観察しているところのものではない。

これらを非対象の中で分離なく観照しているものが真の私だ。

そこにあるのは限りない意識であり、全体であり、一つである。

神だけがおられる、神だけが生きている、全ては神だけである。

分離している私やあなたも神である。私と言う観念も神である

生老病死も、私の、私がの自我も、天使や悪魔も、内側も外側も、悪も善も、意識も無意識も、生も死も、思考も無思考も

誕生と再生、輪廻転生も、人間だけではなく竜族も、地底族も、神族も、宇宙人も動物だけではなく植物も無生物も

悲しみも喜びも、天才も凡才も、苦しみも楽しみも、悟りも迷いも、葛藤も解消も、混濁も澄明も、愛憎も、執着も無執着も

進化も退化も、発生も消滅も、ホワイトホールも、ブラックホールも、時間も空間も、

心も心ではないものも、質料と質料ではないものも

そして知覚も誤解も、そして最期に全ての有情と全ての無情の私もあなたも神であり、神が全てのそれであり、

神だけが生きておられる。神だけがおられる。

万物はブラフマンである。一切はブラフマンである。

神は限りない愛であり

限りない気づきの大洋である。


(ある哲学者からの教えより抜萃しました)







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