自我の終焉
終焉すべき自我とは、一体何であるのか?
私・自我それは、ラーマクリシュナの言うように神がつけている仮面(ペルソナ)なのではないだろうか
ラマナ・マハリシの言うように統覚機能という窓を通じて投影されている映像が私・自我=行為している自分なのではないか?
それは一般的な意味で自我と呼ばれている自我とは、私・自我のものなのであろうか?ということである
そもそも自我とは自我のものなのであろうか?私・自我は私・自我が生み出したのであろうか?
"私が、私の"という自己感覚は私自我によって付与されたのではなく、心の性質として構造上から発生している自我感覚である
生まれることや死ぬことも、そして病気や健康も、失敗や成功も、気がついたときにはそれがそこにあったように
また、思考や感情や出来事がやってくるのと同じように、私・自我とはDNAを伴って、誕生したときからそれはそこにあった
のではないだろうか
自我・自分とは肉体や諸体やDNAや頭脳と、そして同じく思考や感情や知覚など、それは根源からのものではないだろうか?
私とは私のものなのであろうか?行為している自己とは根源が演じているのではないだろうか?
また、個人とは個人のものであるのだろうか?個人が個人を生み出したのであろうか
私に行為ができるのだろうか?また私の目の前のあなたの行為とは、あなたが行為しているのか?詳細に見てみよう・・
自己自我の前にいる対象としての他己とは、「神が演技している自我」を映している合わせ鏡ではないだろうか
もし、わたしであるのならば「見ているものも見られる対象も一つ」として見ていることだろし、そこには思考や主客の分離はない
ことだろううから、自己自我はないことであろう。自己自我ではなくわたしであるからだ。
自我自己とは自分が自由意志で行為しているということの前提の上に成り立っているので、もし行為が私によ
って為されていない・・という実感があるときには自我は存在し得ない。カルマが発生し得ないからである。
(但し、この直覚は憑依やインプラント、思考投射、テレパシー、脳内麻薬や、変性意識状態などの範疇の事を
言っているのではない)
私・自我自身というものが、頭脳や肉体やDNAや、そしてそれに基づいて起っている思考や感情や記憶と同じように、
起こっている事なのではないだろうか?何故なら自己自我の中身は脳の条件付けに基づいた記憶であるから
それゆえに、根源から分離している自我・私などがそもそもいるのだろうか、そのような神から離れた自我・私というものが
あるのだろうか?
私が悟るのだろうか?輝きを益すのは私なのだろうか?私が私を浄化するのであろうか?
不安と苦しみに覆われ、肉体と同一化しているところの幸福や不幸になったりする私とは誰であるのか?
自我に苦しんでいる自我とは誰の自我なのだろうか?その自我=私とは神が付けている仮面なのではないだろうか?
自我とは脳の条件付けの結果ではないだろうか?
そして
神経を介して諸体の脳と繋がれた魂がその私・自我を自分だと錯覚しているのではないだろうか?
知覚し、思考しているのは私なのだろうか?
それともそれらの思考や知覚や行為が脳に発生しているのだろうか?
内面の思考や知覚や記憶の反応などのそれらに対して反応し判断している私・自我とは私のものなのか?
それともそれは根源が使っている自我なのか?根源が演技しているのが自我なのではないだろうか?
痛みなどの情報を受け取り、恐怖を知覚し、それと同一視し、評価し、判断し、意味を与え、心を対象知覚して
しまった統覚機能が、自分ではない私、即ち心である自我を自分だと錯覚したのだ。
だが心とはラーマクリシュナの言うように根源が演技され、自我として表現されているものなのではないか?
自我とは根源のものではないだろうか、統覚機能とおなじように。
意識の階梯を登り歩み、チャクラの輝きの段階、魂の進歩の階梯があると思っている私や、私は徐々に進歩している
と思っている私とは根源が演技している私なのではないか
自分が変化しているのではなくて、根源が変化を起こしているのである
自分が真我を求めているのではなくて、根源が真我を求めていることを起こさせているのである
意識の座も、その意識そのものも、心も、思考も私が生み出しているのではない。根源から私と言う観念も派生している、と.
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意識の階梯は、意識を生み出し、運営している根源が開示する事柄であり、非対象・非思考の「目」が意識の座に開示されて
いくのも根源によるのである。それは自我には拠らないのである。
その「目」は開示されない限りは、哲学者や宗教者や、一般大衆によってその存在自体に?マークがついてしまうことであろう
けれども「その見、その目」のその開示は愛という内容を伴い、他者へと意識が拡張していく中で、相手の苦しみが自分の苦し
みとして知覚認知されていく道程を経て徐々に自らその意識の真実の「目」が現在意識の限定されいる意識に拡がっていく。
新たなる「愛の目」の誕生である。
この目である「見ること」とは時間に属さず、過去現在未來というマインドの継続の中にはない。それはマインドの時間の中には
常に成り行くことの過程があり、進化があり、退化があるからである。「見ること」は行為ではなくて、起こる事であり
在ることであり、私自我がすること行為ではない。それは記憶という継続=輪廻のなかにはないからであり
常に時間に属さない新たなる新鮮な在ることが時空系のマインドの中では起こる事、として記憶されるのである
それはアチューメント(一体感)→テオーシス(一体意識・非分離の意識、吾はそれなり)という「見ること」の深まりとして
実際に根源から開示されていく。何故ならそれは個体は初めから根源が姿を変えたものであるからである。
それ故に、この私とは神のものである。神の演技である。神自身である。それは根源そのものであり
意識の開示、それらは根源が起こしていると言われている。根源以外はなにものも存在していない。
それは春になれば、どの花も「自分が努力して開花するのではなくて」自然に花が開花するように・・
また、決して花が自分の努力で開花するのではなく、花は自然の一部であるから、自然が花を開かすように
「私という自我」も、この自我が自我の主体なのではなくて、私という自我を使って生きておられるのは根源であり
根源が主体なのではないか?
それはコンピュータのゲーム上での登場人物を見れば、そのゲーム場の人物が、好きになったり、戦ったり、祈ったりして
自分が生きていると思っていても、実際はPCという頭脳の中での事であるのと似ている。
「自我の終焉」で示されている自我とは私の自我ではない。自我は神が演じているのであり、根源のものであり根源だからだ
それは最高我である・・・と、だから自我の終焉とは根源が起こされるのである。
ラーマクリシュナは再度々々
「絶対の実在、智慧、歓喜であるサット・チット・アーナンダが覚醒の感覚を味わう
ために個人や個我を造られたのです。 じつは個人我とは最高我なのです。」
と強調されている
またその自我を観照している魂も、魂というものが主体なのであろうか?
そうではなくて、魂を通じて世界が投影され、そして二元という現象界が出現し、それがまた魂によって対象として
知覚されているのであり
魂という窓を通じて根源が宇宙・世界を投影しているのに、窓である魂は自分が宇宙・世界を投影して、自分が認識している
と思っているのではないだろうか?自我とはその窓を通じて投影されている現象のものではないだろうか?
シャンカラは「統覚機能である魂が、自分が認識していると錯覚しているのだ」と説明している
魂は認識を純粋精神に届けているのであり、根源がその窓という魂を通じて世界を投影して非対象・非思考の中で
認識しているのではないだろうか
私が呼吸しているのではなく、「いのち」がそれぞれの個体に於いて呼吸をされておられるのではないか
私が肉体を去るのではなくて、「いのち」が肉体から離れ去るので呼吸が止み、
それに伴い頭脳の機能停止と脳と肉体とエーテル複体が源泉の原子に還ることが起こるのではないだろうか
そして、そのいのちと共に私と言う自我も諸体と共に肉体から離れて、一時的に中有界に留まるのではないか
さらに再誕に際しては、その精妙なる身体も精妙なる原子に還元し、自我は、その特性と記憶をコーザル体へと引き継ぎ
コーザル体を収納した魂は再生のサイクルへと循環し、諸体やDNAと共にコーザル体を引き連れ、波長のあったこの宇宙
の惑星の或る母親の子宮に引き寄せられるのである
そのようにして現象界を回転させているのは根源自身であり、転生の度ごとに魂が身に纏う私自我とはその根源の作品
なのである。
私・自我が生きているのではない。他と分離している私・自我とは本当は存在していない。
神が自我を使用して生きておられるのだ。自分が生きていると思っている自我とは神の演技である・・と。
私・自我とは根源の演技であり、実際には根源しか存在していない。
怒りや、喜びや、悲しみや、感動や、記憶や、それらを頭脳を使って演じておられるのも根源である。
肉体である有機体にしても、幽体にしても、自我にしても、魂にしても、私のものではない。そもそもわたしとは根源だからだ
この思考や感情や記憶を自分のものだと思っている自我を、自我自分は自分独自のものだと思っている・・
それは地球人のみならず宇宙のすべての友人が同じく内面=心を付与されているのだというのに・・・
宇宙中の全ての被創造物の私という内面や、諸体の頭脳とは(それを私のものだと思っている自我とは)根源の仮面である。
根源が宇宙中の自我を使って、現象界という舞台で演じられておられるのだ。
それ故に、
終焉すべき私の自我というようなものはなく、恩寵を与えられるべき自己もなく、悟るべき自己もなく、解脱するべき私はい
ない・・と
そのような時間領域内の私とは根源の表現であるからだ。根源が仮面をつけて演じておられるのだ。
それらの論理的根拠は、思考・脳は自我が生み出したのではなくて、自我こそ諸体の脳の結果であると言うことである
ラーマクリシュナや諸賢の方々が繰り返す
「行為はあなたが行為していない、行為は根源によって起こっている。さらに行為は起こっていないのだ・・・」
ということの実感が根源によって、この自我に起こった場合には、統覚機能を覆っていた「私という観念」が脱落し、
従って諸体の脳も条件付けが解除し
もはや行為は起こる事はなく、従って行為の主体である自己も脱落し
カルマからの解放があることだろう・・と言われている
それこそが自我の終焉ではないだろうか
自我を自我としてみているのは自我であり、「見ること」が起こっている中では自我は自我ではなくて根源の表現として見られている