なろうとすることは在ることを否定することだ
「なろうとすることは在ることを否定することである」
有名なクリシュナムルティーの言葉です
さらにこれをわかりやすくラーマクリシュナは
「ジーバ(個人的魂)であると自分のことを思うものは、
たしかにジーバ(個人的魂)のままです
自分を至高の神のようであると思うものは確かに神になります
人間とは、その思うものになるのです」
と述べられている
真我実現しようとするものは、真我実現しようとすることで、現在の自分とは真我ではないことを心に対して
強く強く宣言しているのだ・・・
自分の事を他と分離している自我だと・・、そう思っているものとは、わたしではなくて、自他に分離している「私と言う
観念」だからである。
だから、その観念と同一化して真我に至ろうとする事は、至っていないと思う無知の「虚偽」の観念を受け入れ
ることとなってしまうからである。
真我になろうとすることは、その正反対に真我ではないことを強めてしまうのである。
「自分は自我であり記憶である」・・・それは間違っている観念である。わたしは自我でも記憶でもないからだ。
「わたしは自我である」と信じることは「私という観念」と同一化している魂による間違っている思いである。
記憶は私ではなく、記憶の反応も私でない。それ故にその私ではないものを私だとして
真我に至ろうとすることは、「自分とは真我ではない、わたしは真我ではない」と言い続け言明することとなる。
その間違った態度というものは、“「私と言う観念」を自分だ”と錯覚した魂(統覚機能)の態度である。
魂とはわたしの統覚機能であって、この魂の自分とはわたしの窓口(窓)であり、わたし(普遍・全体)の一部であるのに
三界に於いて「私と言う観念」に覆われ、諸身体に浸透したが為に、その「私と言う観念」を自分と取り違えて
「自分は神の元を離れた」「私は真我ではない」という観念に覆われてしまったのである。
統覚機能(魂)が自分の事を「私と言う観念」と取り違えてしまい、その「私と言う観念」が肉体を自分だと思っ
ているのである。
統覚機能(魂)のわたしとは真の私であって、「私と言う観念」ではなく、まして現在の私や肉体や諸身体ではない。
統覚機能(魂)のわたしとは真我であって、全てと一つであるのに、自我と自分と取り違えたのである。
そういうことであるので
その真我実現しようとする努力が、自分とは真我ではないということをいっそう際立って強調してしまっている・・
ということを私達は理解しないで、真我に成ろうとしてしまう。
真実はわたしとは成るのではなくて既に真我であるのだ。
だから、真我の実現を目的や努力とすることで、自分は真の私ではないことを心に対して宣言していることとなる。
〜になろうとしたり、到ろうとする事は目的等の動機を持つことであり、それ自体、それは思考の働きであることに気
がつかないからである。思考は私ではないからである。
クリシュナムルティーの言うように、既に在るのに、なろうとし、至ろうとしているのは在ること・真我から
離れて行くことだ。現在意識の状態の如何にかかわらず私達は意識であり一つなのだ。
だからラマナ・マハリシは
「あなたは在る!既に在る!在ろうとしたり、在ることについて思考してはいけない」
「在ることに成るのではなくて、既に在るのだ」
と述べたのである。
このことに関連して、さらにラーマクリシュナは優しく私達に語りかける
「この世にある人間の為すべき事とは何でしょうか
それは、神に一切を委ね、帰依することです。
それが貴殿の心配と苦しみの終わりとなることでしょう、そのときに貴殿は総てのことは神の意思に
よってのみ成就されるのだと悟るでしょう」
「この世で生きるか、それともこの世を放棄するかは神の意思に拠ります。
だから神にあなたの一切をお任せしなさい、一切を任せながら働きなさい。
貴殿は他に一体何が出来ますか」
「真剣な心でもって至高の実在を探すものは、至高の実在の恩寵によって、
如何なる道によっても
また如何なる宗教によっても、至高の実在に達することが出来ます」
また自分の信じる道だけが唯一の正しい道なのであると思っている人々に対しては
「或る宗教は真実であり、その他は虚偽であるということは独断に過ぎません。
そしてそのように言うことは、悪しき態度に過ぎません、神に至る道とは、様々な道があるからです」
「神は有形であり、無形ではあり得ない、と主張する人々がおります。そうして彼らはこれに関して議論します
ブラフマンのみが唯一の実在とするシャンカラ派の不二一元論者とヴィシュヌ神崇拝論者達は相争います
けれども、人は神を見たときにしか権威をもって神について話すことはできません。
そうして神を見たものは、神は同時に有形にして無形であること良く知っています。
また言葉では決して表現することができないということを、更によく知っているのです」
クリシュナムルティーはこの神という言葉を極力避けて「アザーネスは人格でも神格でもない」と表現していました
この至高の意識とは「見るものは見られるものである」という、主体と客体の区別のない純粋意識の状態であるとも
説明していました。
この意識のことをラマナ・マハリシは気づきとは非対象であり、非思考であると言ったのです。
思考というさざ波が静まっているという、消極的な状態、即ち思考が沈黙している状態をさらに超えて、
静寂の純粋空間である非思考の静寂の観照状態のことを指して、クリシュナムルティーは「見る」という言葉を
使っているのです
ですから、わたしたちは、自分は個人であり、他と分離しているという観念や
自分とは自我・現在の人格や、現在のパーソナリティーであるという間違った
虚偽の観念を受け入れたり、その観念と同一化したりすることなく。
また真の私がこの現在意識に顕在化しようと、顕在化していなかろうと、真の私を思い出すことが、大切なことだと思
われます。
如何なる宗教や宗派、思想、哲学、人種(地球人か否かと言うこと)や意識体の差異を
のり越えて、共に真実の実在がこの意識の座の内奥に存在されている事に注意すべきではないでしょうか