自我を観察しているのは同じその自我だ
自己を批判している自己とは、その批判されている自己ではないか
自己を観察している自己とは、その観察されている自己ではないか
同じ思考が、同じ心が、自らを分離し、観察する私と観察される私に分割しているのではないか
それは同一の思考の姿ではないか
他人を非難している自己とは、その非難されている他人と異なっているのか。
思考である自己をもう一つの鏡に写し出して自己のことを
他人として知覚しているのではないか?
自己のことを自分とはどうしようもないやつだ、
何とかしなければならないと反省している自己とは
その同じどうしようもない自己なのではないか?
両者共に思考なのだ。
果たして、わたしは、(意識であるわたしは)
自己を対象化したりするのだろうか
自分を対象化し、非難して反省したりするのだろうか
自己を評価したり、非難したり、尊大になったりするのだろうか
自己や他人を対象化したりするのであろうか
自己や他人を評価したりするのであろうか
自己や他人を非難したりするのだろうか
純粋なわたしであるならば思考ではなく、心でもないので
それらの思考であり、その心であり「私と言う観念」であるところの
この「私の、私が」という自己の、「対象」になったりするのであろうか
純粋なわたしは意識であり、思考や心ではない。わたしとは思考の自分には未知なるわたしであり、
思考の私には「それではない、そうではない」と否定的に接近できるのみである。
思考や心とは、自己を対象として知覚しているものではないだろうか
対象として知覚している自己(知覚者)とは、その知覚している対象ではないか、(知覚者は知覚されるものだ)
それを自分が見ているのだと自らを主体だとしてしまうのが、自らを対象化する心の構造である。
知覚されている対象が知覚しているもの自身といえる。分離を知覚しているのは分離している思考であり
善悪を知覚しているのは、その善悪というマインドである。その思考を知覚しているはその思考であり
(意識が活性化しているとき)思考ではないので思考はないことだろう、意識である沈黙があることだろう。
そのとき意識があるので心はないことだろう、そこは意識である沈黙があることだろう。
同じ思考であるのに自らを分割して自己を対象化して観察しているこの自己とは
その私とは「私は対象である観察されている自己ではない」と、「私はこの自我を観察している自己である」と
誤って誤認している。
自我を観察しているのはわたしではなくて「思考である自我」なのである。わたしは観照しているのだ。と
もし思考ではない意識であるならば、思考内容と同一化せずに、思考の働きの構造を見、思考の隙間を
見ている事だろう。意識とは思考の隙間、思考の基底だと教えられているから。
その対象化されている自己とは、(対象として知覚されている他人とは)
その対象化をしている自己(心・思考)なのではないか、それは同一の心や思考が自らを分離して
観察者と観察されるものして分割して見ているのではないだろうか
もし、わたしであるなら、純粋なる意識であるなら
決して対象化しないし
分離して見ていないと教えられている。
自己を対象化し、形象化し、観察している自己とは
その観察されている自己ではないか、思考が思考に巻き込まれているのだ、それを見ているのだと錯覚している。
それは思考であり、心であって意識ではない。わたしではない。
わたしであるならば思考ではなく、対象を持っていないと、対象と分離せず一つだと。
わたしであるならその思考や心が映されているスクリーンとしての(意識の座又は思考や心の基底として)
意識であると。
この思考であり、心である自己にとっては(私と言う観念にとっては)わたしとは未知なるわたしであることだろう
そして、その基底の意識であるわたしが実在しているからこそ、この心や思考が成り立っているのではないか
それなのに、思考や心は意識の実在が理解出来ないのだ、分からないので思考や心しかないと思うのだ。
夢も、そしてもう一つの夢であるこの日中の意識も、熟睡時にも決して途切れることのない観照が続いて
いるからこそ、夢も、日中の覚醒も、熟睡も成り立っていると教えられている。それが意識の座だ。
対象を知覚している私、対象のある自己とは、その観察されている自己であり、その対象である自己である。
それは思考であり、心であり、わたしではないと。
それは即ちクリシュナムルティーのいうように
観察している自己こそ観察されている自己であるといえるのではないか。