自我の定義とは



「自我とは自己がブラフマンであることを記憶喪失しているブラフマン

である」
(山手國弘)


肉体や諸体とは至高なる叡智の結晶である。

この肉体や諸体とは高次の私の宿る宮ではないか


そして、そこにて同時に起こっている微妙なる感情や、感覚、思考や記憶の

働き、そして、さらなる芸術的な心の襞を表現している喜びや悲しみなども、

根源による創作作品なのではないか

それは自我(純粋なる自我のことであって、以下この文章の枠内では自我のことを通常よりも純粋な

魂の媒体としての意味合いで使用する)
が生み出したものでも、自我のものでもないの

ではないか。

そもそも自我そのものも自我が造ったのではない。自分は自分が創ったのではない。

自分の思考は自分が創ったのではない。自分の知覚や時空間の認識は

自分が創ったのではない。

この通常、自分と思っている自我と称されている自己とは根源が造られた「私

という観念」の働きの結果生じているものであるのではあるまいか。

で、その自我によって知覚されているものとは、自我(「私という観念」)と同

じように(自我を通じて知覚されている)根源の作品であり、これもまた根源に

よる創造であるのではないか

それが肉体と同じように、肉体と諸体の頭脳の働きを媒介して形成された人格とか個人とか現在のパー

ソナリティーとか呼ばれているものではないだろうか。


さてここで改めて自我の定義がなされなければ混乱を招いてしまうことだろう。


この魂の系列としての自我と、頭脳と諸体の結果である人格や、その諸体

のことを現在のパーソナリティーと呼称して厳密に分けて考えて見たい。


というのも究極にはこの二つの系列はアートマン、ブラフマンとして

一つであると教えられているが、分離のない高等なる意識の事は私には分か

らないのであえて分けて考えて見ることにしたい。


この地上に於いては、自我は、その‘記憶から成立している人格’を自己と錯覚しており

同一化し、知覚している・・即ち、行為している人格のことを自分自身だと思って、自我が人格を

非難したり、受け入れたり、評価したり、良くしようとして藻掻き、なにかに成ろうとし、

至ろうとして苦しむのである。

自我が誤って「自分だと思ってしまっている人格」とは・・・

人格・・それらは自我ではなくて、自我と云う魂から派生した現在意識が脳内で出会っている

記憶・・即ち‘条件付けられている記憶とその記憶の反応’であり、その記憶である人格とは

行為と同じく「起こっている事象」なのではないかと思われるのだ。ただ魂である自我が

その人格を私だと信じているので、その人格の行為の結果がコーザル体を経由して次に

転生してくる魂が入る肉体に、前生に入っていた肉体の行為の結果が継承されてしまうのではないだろうか

それなので魂からの自我は自分が転生していると思い込むのだ。



親が名前を付けて下さり、愛情を注いで育てて戴き、けれども最期には枯れ果て老衰し90年後の時

間を経過して、死を迎える肉体のことを自分だと思っている自己とは、記憶とその反応の人格である。

また、同時にその人格の自己を自分だと思ってしまっているのは魂である自我でもある。

肉体の死後、しばらくは再生時まではその人格の自己は存続するが、この人格の自己は

諸体の記憶でもあるので、諸体は元素に還り、記憶などの情報はサムスカーラとしてコーザル体に

刻印される・・といわれている。

その諸体の自己とは人格であり、肉体とこの人格の両者を通じて行為は為されているのであって、

自我によってではないのではないか。

根源からのDNAによって決まったように機能し、自律神経と体制神経によって、絶妙に為されている肉体

の行為や諸体の行為を見て、自分が行為していると思っているのは、魂から派生している自我ではないか。

欲し、感じ、思い、記憶し、決められているように決め、選択されているように行為を選択している人格

のことを自分だと思っているのは自我なのではないのか。


‘記憶である人格’とは自我の自己ではなくて、自我が自分だと思っているサムスカーラを継承している

人格なのではないか。



その記憶であり、記憶の反応である人格や個人とは、その記憶の集合体であり、DNAに従って

条件付けられたように反応しているのであって、それは自我ではない。

自我とは魂の派出所であり、魂という統覚機能を通じて人格と肉体と世界が投影されているにも

拘わらず、それを外部に、対象として見てしまっているのは「記憶喪失してしまった自己」なのではないか

肉体(諸体)とペアになって行為をしている人格とは、至上の叡智が投影されている映像であり

根源が繰り広げておられるドラマでの演じられている出場人物であって、

それは自我と似ているけれども異なるのではないか。


自我はそのドラマ・演劇が脳内で繰り広げられているのを見て

全く自分を忘れ果て、そこに起こっている五感や、知覚や、思考や

行為や出来事を自分自身のことだと思い込んだのである。そして一喜一憂しているのだ。

覚醒時と夢の中に登場して、演じておられる自分とは自我ではなくて、根源の演技であると。

その映像上の演じている自己とは行為に組み込まれている人格であり、それは記憶の反応

の自分ではないだろうか。



自我には自分が誰なのかを思い出せないのだ。

自分は魂であり、ブラフマンであるのに、自分のことを人格だと思っている・・

さらに転生をしているのは毎回の人格ではなくてコーザル体であり、そのコーザル体からサムスカーラを基に

新たなる人格が形成されている。その新たなる人格とは魂と自我が入ることになる肉体であり、諸体のことでもある

自分が毎回転生していると思ってしまっている魂とその自我には

ただただ記憶喪失しているので、自分が誰なのかを思い出せないのだ・・・・と。

自分である魂・統覚機能を通じて内部と外部という二元対象世界(現象界)が投影されているのだと云われている。

それゆえに、この二元の現象界とは、二元の統覚機能である魂を通じて投影され成り立っているのではないか。



自我とは、肉体や諸体やそれらの記憶ではなくて、魂に属している。

肉体や諸体やそれらの記憶とは根源が表現されている芸術作品なのである・・と。

この自我とは魂の一部なのに・・・自我にはただ思い出せないのである。

それは記憶喪失しているからである。本当は自我もブラフマンの一部なのであると云われる。


魂やその魂の先端である自我とは、ラーマクリシュナやラマナ・マハリシの云うように海の一部なのである。

魂とは大海の表面の波のことであり、一見すると魂も自我も分離していて個別に見えていても

実際には、不二一元の非分離の意識であり、全体であり、ただ一つなる海であり、海自体なのであると。

極論を言うと自我さえも海の一部分なのである。

自我とは魂である波のさらに、その先端部分である・・といえるのではないだろうか。



「一つの意識(大海)だけがある。そのただ一つだけの意識が私と言う観念(魂・自我)として顕れ

(肉体及び諸体の目という)知覚と感覚を通じて魂という統覚機能を通じて)

それ自身を投影している。
ただ一つの意識が魂を通じて現象界を投影し認識している)

それにもかかわらず、その「私と言う観念」は周りに対象を知覚しているがゆえに

対象である肉体と同一視している。」


とラマナ・マハリシはその純粋意識の地点からこのように教えられているのだ




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