なろうとすること


真我に成ろうとしているものとは誰か?

真我に至ろうとしているのは誰なのか?

それは私なのであろうか?・・・・

私になろうとすることは既に在る私から離れることではないか?

それは私・実在から離れることではないのか

すでに在るものは決して在ろうとか成ろうとかはしないからだ。

私であるならば既に存在しているからである、私は在ろうとはしない。

既に私であるならば私は在るからである、至ろうとはしない。

私が私に至ろうとしたり、私に成ろうとするのだろうか?


だから、私なら在ろうとはしないことだろう、既に在るからである。

その真我に至ろうとしているものとは私ではない、「私と言う観念」であるものだ

私ではないところの「私と言う観念」とは私ではなく、五感や思考であるものだ

五感や知覚や思考は私だと言っている「私と言う観念」であり「私ではない私」だ。

その「私ではない私という観念」は時間と空間を本質としている無知、マーヤ

無明である。だから真我になろうとしているのだ。

(それは知覚であり、心であり、思考であり、肉体や自我を私だと

思ってしまっている根本観念だ)それを意識の座である私が、それらを対象と

して観察してしまうためにその私と同一化して、自分が行為している

私は自我なのだと思い込むことによって輪廻の領域、為す事、起こ

っている領域に引き込まれていく。三界輪廻に巻き込まれていく。

意識の座である私が、その鏡に現れている私という観念や、その観念が生み出した

記憶の私を私だと錯覚したのである。



私であるならばけっして真我になろうとしたり、グルを「私」以外に

求めて探したりはしないことだろう。あちこちに真実の教師を求めて

放浪はしない。

求めているこの私とは意識の座に写っている『「私と言う観念」が

生み出している自我という記憶の反応である私』であり

この意識の座という鏡である私の内奥には「私」が実在しているからである。

その「私」を探し求めているのが自我という「私と言う観念」が生み出した思考の記憶である

私であり、その「私と言う観念」を対象なく照見している実在しているのが私であり

巻き込まれて自分だと魂の一部が錯覚に陥っている

実在している私、非対象の私、非思考の私・・その私は既にいまここに在るからである。



私が私であるから、なろうとはしないことだろう。真我実現の方法を模索したりはしないだろう。方法を発見したりはしないだろう

私でないものだけが、私になろうとするのである。私ではないものだけが私を外側に求めている

私であるなら私は何処にも行かないし、行こうとはしない。既に完全完璧であり、これから光り輝くのではない。

私であるなら為す事はしない。私であるなら為されている事から、起こっている事から離れているからである。

私ならば起こっている現象を自他に分離せずに見ているものであるからだ

その照見の中には二元と分離はない。見るものと見られるものとは一つであるからである。

その見こそ、その自他に分離することのない目こそ私自身の目である。意識の目に他ならない


なろうとすることとは、時間である「私と言う観念」が引き起こしていることであり

「私は真我に至る方法を発見した」「この方法で真我を実現出来る」「段々と魂が輝いてきた」などということは

浅薄であり、滑稽に見える。それは「私」から離れて行くことだからである。

それは行為であるから「私」から遠ざかっていく事だ。

行為とは起っている領域であり、私と言う観念の世界の領域である。

その方法の実践はこの領域に嵌っていくことである。真実の私から離れて行くことだ。

無明に陥ることである。


その真我に至ろうとすることが、如何に妥当性があるように見え

方法論的に確立していても、それは真我から離れて行くことになるであろう。

その到ろうとする事自体が私から離れていくことなのである。この偽りの道は何処まで行っても

私に行き着かない、それは結局は私から離れていくからである。


なぜなら、それは「私」は既に此処にあるのに、その成ろうとすることは「私」から目を背け、「私」を否定する動きであるからである

あるがままの中に、そしてあるがままをあるがままに見ることの中に「私」がある

成ろうとすることは、私を私ではないものと取り違えたことから始まっている

それは私を知らない無知という「私と言う観念」・根本の無明が起こしていることだからである

それは行為であり、時間であり、到ろうとする事である。それは私ではないものが起こしているのである。


その行為していると思っているものこそ私ではないもの即ち

「私と言う観念」に他ならない。それが私になろうとしている無明である、

その「私と言う観念」を見切ることがラマナ・マハリシの「私と言う観念」の根源に至ること

ラマナ・マハリシの「私という第一根本観念」の根源に至りなさいと言うことであるように思える。



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