意識の中には時間はないことだろう
意識の中には時間はないことだろう。
意識の中にはあなたと分離している私はいないことだろう。従って「世界である私」がいることだろう。
意識の中には距離はないことだろう。今と此処があるからだ。
意識の中には思考が無く愛があることだろう、その愛とは意識であることだろう。
意識の中には心はないことだろう、従って心がないので愛と至福と感謝と沈黙がある事だろう。
けれども
時間とは、意識が支え、意識がなければ時間もないことだろう
あなたと分離している「心の私」も意識が支えていて
意識がなければ、「心の私」も、この「私と言う観念」もないことだろう。
距離も意識が支えており、意識がなければ距離もないことだろう。
宇宙もあらゆる次元も意識が支えており、意識がなければ
あらゆる宇宙もあらゆる次元も
あり得ないことであろう。
意識の中に心が生じ
心の中に思考が生じ
思考は「私と言う観念」と表裏であり
現在意識と潜在意識で構成されていると言われる。
心の中に頭脳があり、心の中に諸身体も、出来事も、記憶も、行為も、そして世界もある、
頭脳は心によってコントロールされている事はDNAを見ても明白である
全人類、いや全生物が等しく平等に、一切の例外がなく、起こっている事は
DNAによって生起していることは明らかである、感覚も思考も知覚も分離している個人も脳の結果
であり
その脳はDNAの結果であり、DNAは心によって使われ、心によって等しく表現されている。
個人とは、根源がDNAを使用して表現されている芸術作品であるともいえる。
真の私ではない自我としての実感も、真我に至っていないという感覚も、真我に至ろうとする衝動も、
真我からではなく、無知・無明から起こってきていることは明かである。真我は既に真我であるからだ。
真我ではない実感、意識ではない実感、真我になろうとすることは無明が起こしている。無知が起こ
している。
「見るものは見られるものである」ではない実感も、時空間のあらゆる次元での「非思考・非対象で
はない自我」の実感とは、この無明が引き起こしていると教えられている。
そしてこの無明である錯覚・無知というものは根源から起きている・・と
言われている
意識の中には「私は真我ではない」という錯覚は存在していない
意識の中には「私は世界ではない」という錯覚は存在していない
意識の中には進歩や退歩、拡大と縮小、時間と空間というマーヤは存在していない
意識とは「見るものは見られるものである」であり、見られる対象が存在していないと言われる
意識とは真の私であって、その真の私が存在していない時空間はあり得ないと言われている。
いや時空間そのものがないのであると。
真我を探すこと、求めること、成ろうとすること、到ろうとする事、その方法と手段を模索すること
この動きこそが意識ではない無知・無明・錯覚の働きそのものではないだろうか
そして
その無知も、無明も、錯覚も、DNAや心と同じように根源がお使いになっておられる・・
と聖賢は言われる。
思考をお使いになり、DNAをお使いになり、心をお使いになり、無知無明をお使いになり
錯覚をお使いになって、個人を生み出し、世界を生み出し、各次元の各世界を生み出して
芸術作品を表現されているのは根源であり
その根源が意識ではないだろうか