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真実は知識や情報や記憶や言葉ではない


真実や真理は、知識や言葉や記憶や情報ではない

真理は、言葉や情報や記憶や知識ではないから、言葉や知識や記憶や情報では真理は伝わらない。

伝達できるものは真理ではない。自分自身でないものは真理ではない。

真理は言葉や知識や記憶や情報ではないから、伝達されうることではなく、自らで体得することなのである。

聞いたことや、記憶からのことや、知識からのことや、本からの真理は、真理の理解ではなくて、それは誤解であるに過ぎない。

不二一元という真理に関することを、言葉や記憶や知識として理解したことは誤解に過ぎず、その誤解を理解だとすることは

人々を誤った方向へ導いてしまう危険性があるのではないか

この不二一元の真理を単に言葉や記憶や理論で知っているに過ぎないのに

「知っている・このことを理解している」と思う事は、間違った方向に向かっていることを示していると思われる。



不二一元の「神が行為している・行為は起きている・自我は起こっている」などの全ったき認識が

その個体の心に本当に起ったとすれば、その個体の心の位置は完全な静寂の状態にあると思われる

静寂であり、全くさざ波(思考)の起こらない意識には、それがはっきりと見えるのであろう

(思考を正見している、澄み渡った透明なる無思考の状態であれば)そのような意識の時には、それは問題はないと思うのであるが

(その思考を知覚することのない状態とは、自我の反応の起きない状態)

不二一元の「行為は起きている・自我は起こっている」ということを、ただ単に、そのことを心が記憶でもって、それらの観念を思考し

ている状態であるに過ぎないとき

その限りに過ぎないとき、(即ちその不二一元の教えが単に概念であり、その境位に実際に立っていない場合、また諸体や

諸体の脳が、そして精妙なるチャクラやクンダリーニがその不二一元の真理を理解できる状態に統合されていない場合)

即ち「行為は神が為している」「行為は起きている」との、そのことが直覚ではなく、体感ではなくて、信念や信仰や、単なる思

いや概念である場合には、不二一元の状態とは逆の状態のまさに虚偽に、その個体が陥っているのではないかと危惧される。


その個体は嘘をついていることになると思われる



真理を、真理ではない状態のものが、単に言葉で語るときそれは嘘になってしまうのではないか

何故なら真理とは、情報や知識や概念ではなくて、生きているものであり、それを言うことが出来るのは、その状態に在る

ものだけであって、その状態ではないものが、それを語るとき、その語ることは嘘をついていることになるのではないか。

真理でないものが真理を語るとき、それは真理ではない。・・・嘘である。内容のない言葉だけだからである。

真理は真理しか知り得ないし語れないからである。真理を語れるのは真理だけである、記憶ではない。



行為している実感がある限り、(自分が行為しているという感覚がある限り)そこには自我があり、

自我があると言うことは、澄み渡った透明な意識はなく、沈黙はない

澄み渡った透明なる意識や沈黙がないと言うことは、心(鏡という意識の座)は思考や感情や欲望で一杯だと言うことである。

即ち無知(自我=思考)で心が覆われていると言うことではないか

起きている行為とその行為を自分が行為者だと錯覚する「偽物の自由意志=自我意識」との協働協力でこの現象世界が

維持され推移することができているのではないか?

丁度バルド界が、根源からの純正アストラル質料に自我のエレメンタルの混合でもって構成されているように・・・

根源が意識を生み出し、意識が心(鏡)を生み出し、心に思考が映し出されているように思われる。

無限が素粒子を生み、素粒子がプラーナ質料を生みだし、プラーナ質料がエーテル・物質を生み出しているように


この不二一元に関しての誤っている教師たちの自己欺瞞の状態・・・それが○○での○○のアシュラムの地獄に代表されることだったと思われる。

その「あるがまま」「行為は起きている」を自我・思考の立場から自己流に解釈した似而非不二一元論者に特有の自己欺瞞の結果

であったように、思われる。


実際の個体のマインド(心)が、その不二一元の「非対象」、「非思考」、「全てに神を見て」、「全てに愛を感じて」、「全てに汝」を、実際に

直覚し、実感していない場合には必ず、自己欺瞞の状態がそこに生まれるのではないか?

何故ならその不二一元の真理とは、知識や言葉では理解できる事ではないからだ。

個体が頭で(記憶からの観念で)知っていることとは、それは誤解に過ぎないことであるからだ。

「不二一元」が単に、それが観念に過ぎないものであるとき、その観念自体が自己欺瞞の状態となり、害悪を及ぼす。

その境位にある個体が真理のそれを自分自身として語っているとき、その観念は真実となり、

その境位にない単なる個体・自我がその言葉、を知識から語るとき、それは虚偽となり、害悪を及ぼすのではないか。


即ち、その真理の状態ではないものの心とは、全くの二元状態であり、マーヤそのもの(即ちシャクティ・性力)であるにも拘わらず、その心の

一部が観念でもって「行為は起きている」「神が行為している」と発言している時には、これは嘘をついている事であるといえる。

そのときその個体からは、その「行為は起きているという観念」が発せられていると同時に、その観念は真実からのものではないので、

その個体の行為は、「不二一元である愛」とは正反対の分離的行為であり、その個体の五感は分離的感覚であり、心は澄み渡っておらず

分離的思考であり、知覚も二元の分離的知覚であり、従って当然愛が無い状態なのだと思われる。

このような矛盾した、自己欺瞞の状態が、「真実の教え」を口にしながら、「真実の教え」を汚し、害悪を現象界に及ぼすのだとおもわれる。

従って、この「行為は起きている」というのは心の次元からの発言ではなく心を超えている純粋意識である状態からの発言であることを熟知して

個体の心の状態を正しく捉える事をすることが、まずはじめになければならないのであり

その為には、まづはじめに

愛を求め

愛を知り

愛として生きる

という道筋をたどらない限り

不二一元の「行為は起きている」との正しい理解はあり得ないと思われるのである。

現在は世界の人々が「私」「私の」「私が行為している」という強烈なる信仰に陥っている、そのような間違っている観念を抱いている

だからこそ、「行為していない」「行為は起きている」と言う信仰や観念を超えて、そこの直視に参入しなければならない

正しい「私は行為していない」は観念ではないから、その正しい観念を抱くことは決して正しいことではない

「自分が行為している」という信仰が残っている限りは、正しい行為も行わなければならないからだ。



この点で、シャンカラも、「行為していない」ということを説いた直後に、無私の愛の行為をせよと強調していて

ラーマクリシュナも、「神が行為している」ということを強調しているその直後に

厳しく、金と女について、そのマーヤの性力についての警告をしております

自分が行為しているという実感がまだ残っている場合には、正しい行為を(自分が行為しているという錯覚の中での)行うよう

に私達に厳重に注意されております。