すべては貴方
-或る指導者から聞いた言葉-(抜粋)
この諸身体は勿論、貴方の最高傑作
呼吸も、血液も、脳も、意識も、知覚も、貴方の最高傑作です。
生まれることも、生きていることも、死ぬことも、この個人がしている事ではなくて、貴方がしておられるのです。
貴方が脳を生み出し、脳を使い、身体を使い、この個人を使って行為しておられるのです。
この個人が脳を使っているのではなく、脳が貴方によって働いているので、この個人が生じていています。
喜びも、悲しみも、考えることも、考えないことも、信じることも、信じないことも、貴方がしており、貴方が
感じておられるのです。この個人が悩み苦しむことも貴方である統覚機能が正常に働いているからです。
そしてこの個人とは観念であって私ではありません。
この視覚は勿論、貴方の最高傑作
美しい自然を見て、美しいと感じることも貴方がしているのです。好悪の判断も、成功を求める心も
貴方の条件付け(諸体の脳の条件付け)の結果起こっていることです。
貴方が、この眼球と、神経と、網膜と、知覚と、その統覚機能を創られ、視覚に意味を与え、
この統覚認知の記憶の結果、個人が生み出され、貴方がその個人を使って演技されています。
この個人に自己感覚を与えられ、自分が生きているという錯覚を与えられ、意識を与えられ、
そして貴方がそれを動かして、行為し、生きておられます。
貴方が視覚などの五感や知覚を動かしておられるのです。知覚は貴方が動かしています。この個人
が五感を感じているのでもなく、知覚しているのではありません。その逆なのです。
私個人が生きているのではなく、貴方がこの諸身体と私・自我を使って演じておられるのです。
この個人には、美しい自然を見ることが出来る眼球も、網膜も、視覚神経も、瞼の開閉すらも
生み出すことはできません、まして動かすことは出来ないし、知覚認知することはできないのです。
美しい自然を見て感動しているのは、個人が感動しているのではなくて貴方が感動しておられます。
この個人ではなくて貴方が眼球を機能させて見て知覚し、統覚し、そして認識し、感動をも起こ
しているのです。そしてこの個人とは観念であって私ではありません。
この五感は勿論、貴方の最高傑作
この体が動くことができるのも、悲しむことも、そして悲しいことも、喜ぶことも、そして嬉しいことも、
快楽も苦痛も、生も死も、五感などの全てのことはこの個人には生み出せません。
起こっている出来事もこの個人が起こしているのではなくて、起きている事であり統覚機能で
ある鏡に投影されていることなのです。
生死は、この個人には生み出せません。DNAが個人を使っているのであり、個人がDNAを
使っているのではありません。個人はDNAの結果なのです。
貴方がこの個人という統覚機能を生み出し機能させておられるのです。
この五感は勿論、この個人が創造したものではありません。五感も、知覚も、この個人も、貴方が
生み出したものです。個人とはこれらの記憶の反応です。
五感や六感は貴方が作られ、貴方が感じておられる感覚なのです。それなのに個人は
自分が感じているのだと錯覚してしまうのです。しかしこの個人とは観念であって私ではありません。
この頭・頭脳は勿論、貴方の最高傑作
この頭脳が、もしなかったなら、考えることも、時間の認識も、両親も子供も、友人や敵のこと
をも愛することは出来ず、知ることもなく、知覚もなく、貴方の物語の上演もないことでしょう。
もし、この頭脳がなかったなら、思考もなく、精神活動もなく、五感や知覚も統覚も出来なくなり
自我・個人が生まれることもなく、貴方を愛することも出来なかったでしょう。この各諸体の頭脳を
生み出され、機能させ、統覚させて生かしているのは貴方に他なりません。
あなたは、全てのものに意識を与えられたのです。そしてそれ故に全てのものは意識を持つことが
出来ているのです。そして全てのものの自由意志を使ってあなたが演じておられるのです。
それ故に、この現在の私である個人としては、貴方が使用されているこの「自由意志」でもって
正しく見、正しく行い、正しく感じ、正しく聞き、正しく瞑想し、正しく話し、正しく思い、正しく精進する
ことを「自由意志」の中で実践することが非常に大切です。これが仏陀の八正道に他なりません
私が意識を持っているのではなくて、貴方が全てのものになっていて意識しておられるのです。
それ故に、貴方が与え、貴方が生きておられる意識を、その意識である個人は「御心」の
自由を感じ、「御心」のままに自由として「御心」を生きるべきなのです
そしてこの個人とは貴方の観念であって貴方の私ではありません。
この思考や感情は勿論、貴方の最高傑作
この頭脳と、この身体が、そして各器官と細胞が統覚して、思考が混乱なく認知されています。
これは貴方である生命が個人を生かしておられるからです。
貴方が脳を条件付け、そしてその脳の機能を条件付けられて、思考を創出しておられます。
思考が必然的に私と言う概念を生み出しているのも、貴方が細胞の中にDNAをお造りになり
そのDNAを使って思考を起こさせ、自己意識を起こさせているからです。この自己意識・自我意識は
貴方の最高傑作であり、この自己意識がなければ、マーヤである輪廻の劇場もあり得ないからです。
けれども、生きておられるのは貴方である私なのです。この個人とは観念であって私ではありません。
鏡である魂という統覚機能がこの映像に巻き込まれているのです。鏡の内奥は輪廻していないのです。
輪廻の情報が、記憶が、鏡の前にあるだけで、輪廻しているのではありません。
この知覚や感情・記憶、この統覚機能は勿論貴方の最高傑作
この記憶や知覚は諸体の脳が正常に機能し、貴方のお造りになった統覚機能が正常に機能
した結果、生じているものです。知覚や記憶は、統覚機能である魂と諸体の脳が完全に機能した
結果生じているものです。そしてその結果、自己という分離感覚が生じて、自分が知覚していて
自分の記憶であり、私の自己だという錯覚が生まれたのです。知覚も記憶も統覚機能も貴方が
生み出され、使用しコントロールしておられるのです。貴方が個人を使用しておられるのです。
そしてこの個人とは観念であって私ではありません。生きておられるのは貴方である真実の私なのです。
この悲しみも、不安も、喜びも、楽しみも、勿論、貴方のものです。貴方のドラマです
この悲しみも、喜びも、この個人が作り出せるものではありません。この悲しみや喜びは個人には
作り出せるものではありません。嫉妬や恐怖も個人には生み出せません。それどころではなく
この個人こそ、あなたの各諸体の脳によって生み出され、生かされ機能しているものです。
個人の私のものは何もありません、私自身も、私の財産も、私の進歩も、私の栄誉も、私の過去も
貴方が作られたこの自我を通じて貴方は表現され、感じられ、生き、演じておられるのです。
貴方でなければこの喜怒哀楽も、栄枯盛衰も、生老病死も、生まれないのです、為されないので
す。全ては貴方に他なりません。
この素晴らしい脳とその脳によって知覚している内部も外部も貴方によって創造され、維持され、
機能しているのです。
そしてこの個人とは観念であって私ではありません。生きておられるのは貴方の私なのです。
この個人・自我は勿論、貴方の最高傑作
この個人・自我は、自我であるこの個人が作ったのではありません。貴方が作られたものです
貴方はこの自我をお造りになって、その貴方が個人の自我を使って演じさせておられるのです。
貴方が自我を生み出し、自己関心や自尊心や高慢や卑下を使ってドラマを演じているのです。
そしてこの個人とは観念であって私ではありません。生きておられるのは貴方である私なのです。
この全ての現象界は勿論、貴方の最高傑作
森羅万象、また森羅万象ではないものも、貴方が存在しなければ存在できません
世界も、地球も、宇宙も、時間や、空間も、貴方の表現です。
貴方が森羅万象を生み出し、生かし、支え、あらしめ、消滅させます。
楽しみも悲しみも、成功も失敗も、誕生も死亡も、健康も病気も貴方がしておられるのです
貴方が魂を使って世界を投影し、そして魂を使って認識されているのです。
そしてこの個人とは観念であって私ではありません。生きておられるのは貴方である私なのです。
そして、この「観念の私」という個人が間違えることも、錯覚することも、道を外すこともあなたの演技に他なりません。
全てはあなたに他なりません。貴方以外に何があるのでしょうか、全ては貴方の中にあります。
アートマンとブラフマンは同一なのです。
そしてこの個人とは観念であって私ではありません。アートマンは貴方と同じです。
魂からこの私という観念が除去されて純粋精神が顕れたとき場合には、主体と客体の区別分離はなくなり、
ひとつなるものの目から、純粋知覚が顕現することでしょうし、そのときには又自他の分離のない違った景色
が見えていることでしょう。しかしこれは言葉や観念では理解することが出来ません。自らが自身で歩まなけれ
ばならないからです。神の演技である個人が歩む必要があります。
それは言葉や思考ではなく、完全な沈黙の中に顕れる愛である静寂が自らに教えてくれることでしょう。
しかしそれは、個人である私と言う観念が神と繋がるのではありません、それは個人が悟るのではありません。
自我が真我と繋がるのではありません。また真我になるのでもありません。初めから在ったわたしが
魂を通じて顕現するのです。肉体や思考や感情や脳や脳の私・個人人格や記憶は真実の私ではありません。
その記憶が如何に精妙であっても記憶は記憶であり私ではありません。この私である生命は呼吸を通じ
脳の記憶や思考や自我を観照しているものです。
私という観念は思考・観念であって私ではありません。
私は個人や思考や感情ではなくて呼吸を通じて、ここに生きている生命です。
この私は生命であり、叡智であり、生きており、肉体が死亡するときは吸気と共に肉体から離れるものです。
私は肉体でもなく、思考でもなく、個人でもないので、生死を超越しており、輪廻していないのです。
私は私と言う観念でもなく、この人格でもありません。自他に分離していない愛と叡智の生命なのです。
今まで魂(統覚機能)を覆っていた私と言う観念が透明になることによって魂の内奥に初めから在った
真我の光りがこの現象界に輝くのです。私という観念が透明になるとは「啐啄同時」が必要です。
私と言う観念が悟ったり、真我になるのではありません。真我になるのではなく、真我は最初から在り、
真我である真実の私が、次元を超越した魂の内奥から輝くのです。
魂である鏡に現在意識や潜在意識が去来しているだけなのです。
その鏡である魂を覆っていた、現在意識で潜在意識でもある「私という観念」が透明化するのです
ここは非常に、求道者達が間違えるところです
-以上、或る聖者からの言葉より抜粋させて頂きました-