ハートで語りかける教え


ハートで語りかけている教えがある。それらの教えはハートから語っている不二一元の教えである。

以下は、その概要である。



私は何処にも行かない。動くことや、行くことはない。移動しないし、移動していない。全く動かない。
  
  何故なら私は肉体ではなくて純粋なる意識であるから、動くことや移動することはない。普遍であるから。


私は何かに成ることはない。私は成就しようとか、悟ろうとかしない。

  何故なら私は成るもの、到達するものではなくて、既に在り、到達している純粋意識であるから

  私は何かに成ろうとしたり、私であろうとはしない。私は既に実在と分離していない純粋意識であるから。

  私は既に私であるので私に至ろうとしたり、なろうとはしない。
 
  至るもの、進化しているもの、真我になるもの、それは私ではないものである。それは即ち私と言う観念で

  あり神のマーヤである。


私は何も為していない。私は行為しておらず。行為したことがない。

  何故なら私は肉体ではないので為す事もなく、行為することもなく、行為に関わっていないから。

  行為していると思ってるのは、マーヤである私と言う観念である。私は行為していない。

  私はマーヤという錯覚でもないから、肉体ではないし、行為していないことを認識している。

  私は実在している意識であるから、肉体でもなく、従って行為しているものではない。行為は

  肉体と同じく神の芸術作品であり起こっているものである。私は行為していない。


私は考えない。考えているものではない。考えているものは私ではない。知覚しているものは私ではない。

  私は思考ではないので、考えることはしない。

  考えているものは私ではなくて、起こっている思考であり、思考自身が私だと錯覚しているのである。

  考えているもの、感じているもの、知覚しているものは私ではなく、それは思考であり私と言う観念である。


私はなるもの、至るもの、進化するものではない。

  私は成長したり、到達したり、成就したり、悟ったりするものではない。

  私は純粋なる意識であり、次元と時空間を超えており、思考ではなく、時間を超えているので

  時間に縛られておらず、既に存在しているので成長することもなく、既に到達しているので

  到達することもなく、成就することもない。その成長し、到達し、成就し、悟るものは神のマーヤであって

  それは心である。心は私ではなく、私ではないものである。心は私という純粋意識ではない


私は自他の分離がないものである。

  私は意識であり、自他に分離していない。

  自分を肉体と同一化している私と言う観念だけが、自分を他己と分離しているものだと思っている。

  また、その自他の分離を実感しており、自分は他人とは別だと思っているものは神のマーヤである。

  自分が行為して、瞑想して進歩して最終的には自分が神に至ると思っているものは、神のマーヤである

  即ちそれは、私ではなくて思考であり観念であるものである。神の芸術作品であるものである。

  その思考と観念は私ではなく、私は思考や観念ではない。私は自他の分離がない純粋意識である。


私は世界である

  私は世界そのものであり、世界は私であるのに、私と言う観念である思考は、自分を肉体だと信じて

  いるので、肉体の行為を自分が為している行為だと思い込んでいる。

  即ち、自我が大脳新皮質で機能して、いくら、そのように行為しようとしても、実際の行為は、神の

  意志によって行為が為されている。即ちそのように行為しようと思っている私こそ神の幻術に捕らわ

  れている私と言う観念である自我である。その自我は思考の記憶であり私ではない。私は自我ではない。

  私である純粋意識は世界そのものであり、拡がっているのではなくて、それそのものであり普遍である。

  対象と分離していない、私、純粋意識は肉体でもなく、肉体を私だと思っている私と言う観念でもなく

  そのマーヤでもないので、私は世界と分離していない。私は世界であり、世界は私なのである。


以上、主な不二一元の教えを紹介したが、現在のところは純粋意識の接点である、現在意識に於いて

マーヤと接触しているので、現在意識は思考やマーヤを見て、自分が肉体で、かつ「成るもの」、「至るもの」

だと自分を錯覚している。

けれども実際は、私とは思考や「私と言う観念」ではないものであり、自他の分離のない

純粋意識なのだ。






















































































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