わたしを愛しているなら

 

 

 

わたしを愛しているなら、自分が、自分がと言って

悟りや解脱や到達や成果を求めるだろうか?

それは利己的な行動ではないのか?、まさに自己中心的ではないか。

それは、わたしから離れていく行動ではないのか?

 

わたしから離れようとするから、

悟ろうとしたり、解脱しようとしたり、到達しようとするのだろう

わたしへの愛があるとき、即ち愛があるとき

自分が悟ろうとしたり、自分が解脱しようとしたり、自分が神になろうとしたりするのだろうか

 

 

愛があるとき

隣に苦しんでいる隣人がいるのに

その苦しむ隣人を横にして、自分だけが瞑想に集中して、

「自分は真我と一体になろう」とするのだろうか、自分だけが解放されようとするのだろうか?


そのときには、その真我とは、自分の自我ではないのか?それはわたしではない。

愛があれば、その苦しんでいる隣人をまず初めに助けるのではないだろうか?

 

 

愛があるとき

隣に苦しんでいる隣人がいるのに

自分だけがひとりで「独りよがりの法悦境に入って」、自分が悟ろうとして瞑想したりするのであろうか?

その自分が悟ろうとすることは、「自分の幸福に執着している」愛のない状態であり

そこには、そのとき自分は全く利己的に覆われてしまっていることに何故気がつかないのか?

そのような「瞑想もどき」とは「真の瞑想」ではなく、愛から離れることである。

目的や動機がある瞑想は瞑想ではない。

 

 

愛があるとき

隣に苦しんでいる隣人がいるのに

自分は何故、悟ろうと利己心に覆われ、自分が解放されたいと自分の事ばかり利己的に関心を持ってしまうのであろうか?

それは愛ではない。それは、わたしを愛していることではない。

その利己的な悟りへの絶えなき探求と、解放への修行や、解脱への瞑想とは愛ではない。探求欲であって探求ではない。

探求は探求欲が落ちたときに始まるからだ。


目的と動機があること自体が「自分の」「自分に」であり、自分の利益を求めているのであって、そこには愛がない。

愛がないところには真実の瞑想はない。

その自分の解脱を求めている私とは一体誰なのか?

誰が瞑想しているのであろうか?

それは自分の願望を最大に優先している「私ではないもの」である、「私と言う観念」である。

その動機のある瞑想とは、愛なき「私もどき」がしている、愛なき行為ではないだろうか?

それこそ、それが「自分という観念」の姿である。

 

 

愛があるとき、わたしであるとき(※この場合のわたしとは肉体や思考を自分と思っている「私と言う観念」ではない)

隣に苦しんでいる隣人がいるのに利己的に悟りを求めたりはしないことだろう。

また自分の達成を求めて自分だけの瞑想など、したりはしないことだろう。

それでは真っ先に、自分の願望を叶えるために瞑想したりするなどの利己的行為をしているのは誰なのだろうか?

わたしであるなら、自分に、ではなくて、まず真っ先に、その隣人の望んでいることを隣人に与えるのではないか


その隣人の事を愛していないので
その隣人の事が分からないのだ。なので隣人を理解することが出来ないのだ。

隣人を理解しようともしないのは愛ではないからだ。

なので、その様な自分では「思考にしかすぎない自分」が考えた「その隣人にとっての望むこと」を与えてしまうのである

そのような、状況にそぐわないトンチンカンな独りよがりの行為が、隣人を傷つけてしまうことになるのである。

それは愛ではない

愛があるところにはそのようなトンチンカンな行為はあり得ないからである。隣人を知っているからである。

愛があれば識別があるからであり、識別の中には非難や判断や好悪や善悪や評価はないことだろう。

識別とは虚偽を虚偽と見る事であり、虚偽の中に真理を見ることである。それは善悪の判断ではない。

思考や観念の知覚認識ではなくて、高次の知覚認識なのである。

 

 

 

愛があるとき、神を愛していることだろう。その時初めて神を求めている、といえる。

そのとき、わたしから離れることはないであろう。愛がわたしとなっていることであろう。

従って、隣で人が苦しんでいるのに

自分だけ悦に入って「瞑想三昧」に耽ったりはしないことであろう。

愛があるとき、法悦には入らなくても、既に瞑想であり、愛の中にいることであろう。

それが瞑想であり、思考が無いことが瞑想であり、そのとき愛の中で思考を正見することが始まる。

思考を正見している中には思考はなく、澄み渡った静寂の気づきの意識が在ることだろう。

思考の見ているあるがままではなくて、真のあるがままが姿を顕していることだろう、完全完璧として。

それは愛の中で思考なく、対象なくただただ見ていることが、起きているからである。

 

それは独りよがりの、利己的な瞑想ではなくて

愛が溢れている瞑想であり、愛があるときの瞑想であり、それこそ隣の人にとっての

わたしが愛そのものである瞑想である。

 

その愛が「在る」とき、愛の中で見ている「目」があることだろう。

その目は愛に溢れ、判断せず、非難せず、逃避せず、沈黙と、澄み渡った静寂の中で

あるがままをあるがままに見ているところの「拝聴する」と云うことが起こっている。

共に苦しむと云うことが起こっている。

その目には、隣人と私の分離はなく、見るものと見られている私の分離がない。

「私がそれであるとき」

全ての中に神を見ている目であり、それが愛の目であり、判断や好悪のない識別の目である。と


識別の中には正邪や、白黒や、評価や判断は存在していない。思考ではないからだ。

識別とは「愛ある目」であるからである。それは虚偽の中に真理を見ている目であり

全てのものの中に神を見ている目であることだろう。


もし隣人の中に神以外のものが見えているのであるなら

その目は自我の目であり、自分の自我を相手に映しているのである。

そして自分の自我が「相手」として映し出されているにも拘わらず

相手である隣人に自分の自我を投影して「あいつが悪い」「それは恐怖だ」「不安だ」「憎悪だ」

「あいつは敵だ、悪魔だ」と自分の自我を映すのである。それは自分の自我を、対象に投影して見ているのである。

知覚者は知覚されるものであるからだ。


その自己投影を正見したとき、隣人は自分自身となり、内部と外部に同一のあるがままを

見る事が始まる。思考なくして観ることが、あるがままを見ることである。と


そして、あるがままを見ている「目」であるわたしであるとき「名付けられない愛の本質=神」への

本当の探求が始まる。


それまでの神への信仰とは、愛や、神を求めている真実の信仰ではなくて、自分が思考(自我)に突き動かされて

自分の安定や安心や幸福や悟りという、思考・自我の欲望の成就を求めていたのだ

それは自我の利己心に動かされている状態であり、その状態での神への信仰とは

「自分の利己的願望の成就」への信仰であったのである。それは信仰ではない。


それは神の信仰ではなく、隣人を愛することでもなく、自分を愛することでもない

それは愛ではなく

神から離れ去ること、真の私からの逃避であったのである。





わたしが、

わたしではない「行為している肉体」や、

わたしではない“肉体と同一化している「私と言う観念である自我」”や、

わたしではない“起こっている思考”を、“起こっている出来事”“起こっている行為”を

分離なく照見しているとき、

わたしによる真の私の探求が始まる。



 

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