選択があるとき自由はない




クリシュナムルティーは言う

「選択があるところには自由はない」と。だから選択が残っているとき自由はないと。

選択とは行為する、若しくは行為していると云うことである。選択している自由意志と、「その意志している私」と、その行為とを

    偏見を交えずに直視すること。思考と、心とを、先入観や観念を交えずに見ること。そしてそれらを直視しているとき

    それらの選択も、選択していると思っている「自由意志」も、そしてその行為も、それらを観察している思考も、統覚機能も

    それを映し出している鏡である心さえも、主のものであり、根源のものであり、個人はいないことがわかると言われるのである。。

選択があるとき、無為はない。従って、そのとき「自分が行為しているという錯覚」があり、自由なる行為はなく、観念による行動しかない。

    無為とは条件づけによる行動ではなくて、行動から解放されている自由なる非行為である。

選択があるところには、私ではなく「私と言う観念」が、鏡である心を覆っている。

選択しているとき、自分が行為しているという「無明」の実感が、魂の知覚を覆っている。そのとき、そこには無為はない。

選択に基づく行為とは、「私と言う観念」に基づく行為であり、自我による行為であり、そこには自我による目的と動機がある

     そして、その自我の行為とは、カルマと、DNAと脳の条件付けによって完全に支配されていて自由ではない。
      
     行為の主体は(選択している主体は)根源であり、自我ではないからである。

     行為しているもの、それは諸体の主、脳の主、カルマの主、自我の主、DNAの創造主であり、マーヤを支配している根源である。

     行為の選択をしていると思っている自我の選択とは、自由だと思っている「条件付けによる条件反射」の条件行動に過ぎない。
      
     行為の主体である根源は、「私という観念である自我」に「自分が行為して、選択しているという実感」を与えて、行為をさ

     れているのである。

選択に基づかない行為とは、無為であり、全くの自由であり、従って「私と言う観念」による意図がなく、動機がなく、目的がなく

     思考が無く、行為がない。そこには、「私という観念」を使っておられた根源からの解放が在り、無為によるあるがま

     まが、あるがままにある。


選択しているときには、自分が行為している、自分が生きている、という錯覚である思考・観念が支配しており、従って「見る事」はなく

     自分には目があって見ているのだという観念・思考が、目を覆っている。


選択しているとき、意識はなく、目もなく、心は混濁しており、「意識していると思っている思考が」「見ていると錯覚した知覚である

     無明が」「眠っているのに目が醒めていると思っている“私と言う観念”が」私を詐称している。無明の知覚が心を

     覆っている。そして言う「私は肉体である」。「私は個人である」。「私は思考である」。「私は心であり転生している」・・と。


選択しているとき、思考そのものであり。心は「私と言う観念」である、マーヤによって覆われている。そしてそのとき、自己の選択による

     行為という錯覚が心を覆っている。これが現象界の劇場である。物事は私と言う観念である自我を含めて「起こるように

     起こっている」「為されているように為されている」・・・それが自我にとっての選択していると言うことである。

     自我が考えているような自我とはどこにも実在していないに・・・・、「分離している私」とはマーヤであるに過ぎないのに・・・


選択している私、その私は演技である。演技そのものである。根源による演技である。根源が使かっている「私と言う観念」である。

     「無知」が、「私という観念」を使って選択している。だからそれ故に聖賢によって私は選択していない、行為していない、無為である

     と、言われるのである。その聖賢の私とは、既に、諸体でなく、個人ではなく、思考でもなく、心でもなく「気づきの意識そのもの」で

     あるからだ。


選択しているとき、私はなく、選択という現象が起こっている。その現象とはマーヤが使っている無知である観念を媒体にして選択が起こっ

     ているということであり、その選択があるということは、未だに私という自我の観念が残っているということだ。


無為であるとき、選択はなく,従って行為もなく、自由がある。「御心のあるがままに、あらしめ給え」「御心の成るがごとく成らしめ給え」

     の状態であり、そこでは選択という観念が存在していないので、御心と自由と無為が一つになった「あるがまま」が出現する。

     この「あるがまま」ということを、選択が残っている状態である観念(自我)が判断するとき。それはあるがままの誤解となり、

     あるがままは、観念による「選択すること」になってしまう。けれどもあるがまましかないのである。そのあるがままを選択している観念

     には「あるがまま」を知る事はできない。真のあるがままとは純粋意識のあるがままであるからだ。


行為している実感が残っており、選択ということがいまだに、行われている限り、その主体とは「私と言う観念」であって、私ではない。

     自我であるからだ。

     なぜなら、わたしとは無為であり、既に行為していないことを知っているからである。行為していると思っている私は私では無い。 

     私は未だ出現しておらず、私ではない「観念であるところの自我」の思考が、魂である「意識の座」を覆っている。すなわち

     心である鏡が「私という観念」によって覆われている。けれども私とは心である鏡ではなくて、鏡に映っている太陽に他ならない。 

     そして、その自我である「私と言う観念」が、意識のようになろうとして“私は覚醒したい”、“私はこの束縛から解放されたい”

     と叫ぶのである。その叫んでいるものとは、既に覚醒している私ではなく(一度も無明の錯覚に触れられない純粋意識ではなく)

     束縛され、錯覚であり、無知である観念。それは私ではないところの「私と言う観念」であることを、思考は理解しない。

     思考は、自分とは「私という観念」であり、思考であることを知らない。まして思考には、思考ではない気づきの意識そのもの

     である私を知らない。

     思考であり「私と言う観念」である自我は、根源の表現の媒体であり、この人類の思考は「私は個人であり、行為して、選

     択している」、と思い込むように条件付けられ、条件付けている。

     選択しているものとは、行為し、思考し、主体である私のように思っている「私という観念」であり、その観念も

     畢竟、演技者(根源)の一部(自我)なのである。



 














戻る