思考にあって意識の中にはないもの
気づきである意識の中にはなくて、思考にだけにあるものとは何か?
この久保栄治とはその気づきではないが、推測することだけは出来る。
思考の「媒体である脳」で受信し、思考の記憶から発している想念の中
にはあるけれども、純粋意識にはないものとは何か?
それ故に、脳を介在した思考であるにも拘わらず、その思考を気づきと
称したり、意識だと偽ってはならない・・・と教えられている。
意識にはなくて無明である「私と言う観念=思考」にだけある思考の特徴
の一部をここに列挙したい。
■善悪の判断をすること:
善悪と判断すること、善と悪を区別すること、(これは偽りと真実ということを知る識別ではない)
「悪ということの認識・・この悪というものは、悪を見ている心の中にだけある。」
心ではない‘気づきという非対象の意識’のなかには悪は存在していない。
その気づきとは愛であるからだ。
善悪とは、その善悪を見ている人の心の中にだけにあり、心を超えている『非思考の見』の中には存在していない。
この人は正しいが、あの人は良くない。とか、あれは善だが、こちらは悪である。とか
どの教えは正しくて、どれは教えは悪いとの『判断』とは、善悪、差別、美醜を知覚する思考にだけにあることであり
気づきの意識の中では悪もなく善もない、愛だけがあるからである。
この覚者はこのレベルだが、あの覚者はこのレベルである。などの聖者の等級差別区別をすることは、思考の特徴である。
覚者の通信簿をつけること自体が(聖者をランク付けすること自体)が思考にすぎない、ということを自ら暴露している。
正しい識別とは、真実と虚偽との識別であり、それは白と黒、善と悪、敵と味方、悪魔と天使という分離判断を含んだものではない。
正しい識別の中には愛だけがあり、愛の中には善悪の判断や、敵味方の判断、白黒の判断、正邪の判断はなく、
そのような評価ではない虚偽と真実の識別がある。
■愛や真我や神を対象化してしまうこと:
思考や心の働きは二元であり、心とは、必ず見るものと見られるもの、主体と客体にさせ、自らも分裂している。
従って、至高なるものである、非顕現の真我や、至高なる愛を対象化してしまうこととなり、それであることがない。
わかりやすい言葉だと「自分である内奥の主体」であるものを、思考・私の知覚の対象として、五感や六感や超知覚の対象
して扱ってしまうのである。非二元の意識が気づきの意識であって、主体がこの意識であるとき、愛や真我や全てのものを
対象として見ることはしない。自分自身がそれであるからであり、それをそう思ったり、そう感じているのではない。
真我である意識は、自分の事をわざわざ「私は真我」である、「私は神」だなどと名乗ることはしない。
愛や真我は単なる言葉ではない。また分離している感覚や知覚の対象になることもない。
非思考、非対象である気づきの意識とは、既に真我であり愛であり、全てのものと分離していない。
それは愛である。対象を持っているところの想念や思考や知覚や認識は、対象を持っていない意識ではない。対象を
持っている思考や心は気づきの意識ではない。
■間違っている観念や、虚偽の知覚を受け入れてしまうこと:
観念とは思考が凝集したものであるが、観念にも、間違っている観念と間違っていない観念がある。
虚偽である観念とは即ち無明である無知から起きている。
それは、「私が行為しているという観念」、「わたしが自我であるという観念」、「自他が分離しているという観念」
「私はそれではないという観念」、「私は全てではないという観念」は無明の観念であり、間違っている観念である。
同じく観念ではあるが「私は行為していないという観念」、「自我は存在しておらず、自我は神の道具であるという観念」
「自他は分離していないという観念」「私はそれでありすべてであるという観念」は正しい観念であり、観念であっても真実であり
気づきである意識から流れている思考、不動の観念である。その正しい観念は事実であるから、事実がその観念を引き
起こしており、その正しい観念が正しい高次知覚に続いている可能性を、思考は理解することが出来ない。
正しい観念の可能性を「それは観念にすぎない」と否定してしまうのが思考である。
思考は思考を正しく見ることが出来ないからである。その思考がどこから来ているのかを知る事ができない。
■動機や目的を持っていること:
間違っている思考は「私と言う観念」から派生しており、自我であるから常に至ろうとしており、常に何かに成ろうとしているの
であって決して自己にとどまろうとすることがなく、『神のように強大になろう』と常に、その目的や動機を持っており、自分が
行為しているとの錯覚から解放されることがない
■何かに成ろうとする意志を持っている:
常に獲得し、自分の知覚を拡大し、意識が深化し、知覚が次元上昇し、自己自身が解脱し、自己が変容し、自己が成就されるこ
とを願っており、あるがままの自己を受け入れることをしない。
これらの、解脱に至ろう、悟ろうと願い、真我になろうとする意志は無知から発している。気づきである意識は既に「そ
れで在る」から成ろうとはしない。
これらの「至ろう」「成ろう」「解脱しよう」との意志は無明であるところの「私と言う観念」であり、真我ではない。
気づきの意識であるなら、既に全てであり、既に主客の区別がないので、解脱しようとか、悟ろうとすることはない。
■階位や等級や順位の感覚。一番になろうとする欲求:
差別・順位の感覚、自他のレベルや自他の差異を常に意識していること。これが思考の特徴である。
次元や等級の感覚、これらの一位とか二位とかの差異、誰がだれより優れているとか劣っているかを判断しているのは思考だ。
常にトップであろう、人より目立ち、人から尊敬され、崇められ、人より優れていたいとの欲求は、意識にではなく思考に
だけある欲求である。
■あるがままを見ないで逃避しようとすること:
内面の恐れ、不安、イライラ、憎しみ、自我、増上慢、自己関心、愛のなさ、等の否定的想念、そして外部から
やってくる攻撃的、否定的な動きに対して、内部と外部のあるがままを見ないで、あるがままから逃避しようとすること
あるがままを愛することをせず、あるがままを変えようとしたり、あるがままと同一化しようとすること・・・それらは
思考の働きであり、気づきではない記憶の働きである。それは条件付けられている反応であり、気づきである意識
ではない。
『気づきである意識』であるならば、内部と外部のそれらの否定的な想念や感情をあるがままに見ることが出来る。
あるがままを敵対視したり、非難したり、攻撃したり、逃避したり、押さえ込もうとしたり、改善しようとすることは思考
の働きである。
■自他を分離する感覚:
自分の悟り、自分の意識の拡大、自分の成果・・・これらを常に気にして関心を抱いており、自分の
事柄だけに関心を集中させているのが「気づきの意識」ではない思考の特徴である。
意識に於いては自分と他人の区別はなく、貴方と私の分離感覚は生じていない。
私と貴方の差異の区別とその実感覚は、思考にだけあって気づきの意識の中には存在していないからである。
■自分が行為していると云う感覚:
自分が行為しているという実感とその知覚は、私ではない思考が(「私と言う観念」が)引き起こしている実感である。
思考は、その「私と言う観念」であり、思考は行為には関与しておらず、行為していると思っている。
行為に関与しているのは神マーヤである。行為とは神のマーヤからの心が引き起こしており、
この心と思考が似ているので魂は自分が行為しているのだと間違えるのである。
神の演技である自我を私だと錯覚することで魂は輪廻に巻き込まれたのである。
マーヤからの「私と言う観念」が引き起こしている知覚が、マーヤである行為の映像と“自分が行為しているという実感“
を引き起こしている。その実感している神の道具である者は観念であり、自我である。魂は自我を自分だと間違ったので
ある。もし気づきの意識であるなら「行為していない」という直覚を伴っている。行為している実感・五感を伴っているのに
観念だけで「私は行為していない」というものは観念が、そう思い込んでいる思考であるのにすぎない。
■得をするとか、損をするとかの損益の感覚:
失うとか、獲得するとか、『財産や内面や心や才能』が豊かになるとか、貧しくなると云う損益の感覚・・・それは思考から
生まれている。
思考とは「自己と他人とに分割・区別」している「分離している自己感覚」そのものであり、常に自分にとっての損益計算
から行動することで、その思考の記憶=自我は成り立っている。
自分にとっての物質的に(霊的にも)利益になることだけを受け入れ、自分にとっての損失は打算的に計算して避けようとす
るのである。
これは快楽を求め、苦痛を避ける思考の特徴の一つである。最高の快楽とは自己が宇宙大に拡大し、支配することである。
あるがままをあるがままに受け入れることを思考には絶対にできないし、しようとはしないのである。
この思考の最終的の損益計算的行動とは、自己が神のようになろうとして、覚醒や解脱を求めるという最大の利己的
活動である
■進歩や進化の感覚:
ダーウィンの進化論をはじめとして、霊的進化論は、常に自己が進化し、世界が進化しているというマーヤである次元の
時間=思考という虚構の観念の特徴から成り立っている。
これが思考の特徴である。だがこの霊的進化という、この観念は虚偽である。
この虚構は思考・マインドが思っている事柄だから、常に時間の(高次の時間でも低次のの時間でも)範疇にあるのである。
実際には進化はなく、あるものが既にあり、時間の開展である進化の観念や概念とはマインドの中にのみある虚構である。
それは気づきである意識にはない。気づきである意識は既に在り、進化や退歩ではなく既に完全完璧であるからである。
変容したり、誕生したり、生まれ変わるもの、深化するものは気づきである意識ではなくて、中間にある統覚機能たる魂である
心に過ぎない。この統覚機能は心を通じて見る者と見られるものという分離の現象次元宇宙の二元を投影し、知覚している。
しかし、気づきである意識はすべての人の身体に同一の同じ真我として宿っている。
■評価や判断をして価値をつけること:
意識は愛であるから評価や判断をつけることはしないし、価値評価・通信簿をつけることはしない。全てが等しく神のものであり
その愛の中には価値の差はないし、それを判断したり、評価することやレベルをつけることはない。識別とは評価をしないのだ。
にも拘わらず、評価や価値を判断し、等級をつけたりすることは意識ではないところの思考の特徴なのである。
人や物事や教えに関して、良い悪いの評価や判断をすること自体が思考の特徴であり、意識ではない証拠である。
誰が悟っているとか、悟っていないかを詮索することが悟りの意識ではない証拠である。
気づきである意識にとっては全てが等しく素晴らしく完全であり完璧であるからである。そこにはオンリーワンの素晴らしさは
あっても、レベルや等級や価値の差という差異は存在していない。
気づきの意識とは差異を見ておらず、全てに全く同一の私を見ているからである。
■進んでいるとか遅れているなどの実感:
あの人は進歩している、あの人は進んでいる。遅れている。あの人の魂のレベルはこの程度である、あの人の魂は
輝いている又は汚れている。(小さくなっている)等を見ている観点とは思考からの観点であり、それは意識ではない。
あの人の霊的階位はこういう程度である、あの人はこのような欠点と美点がある、などの見方は「私と言う観念」からの
観点であり、それは無知・無明の証である。
現在のパーソナリティーや魂に対しての霊的進化に一喜一憂していること自体が意識ではないことを証明している。
意識には“私や貴方の区別はなく”、進んでいる貴方や、遅れている私もなく、高次の私や低次の私は存在していない。
意識には私とあなたの区別が存在していないからである。
高次や低次という次元の区別があるのは心である思考の次元であり。意識である気づきの中にはその高次と低次の
次元という分離宇宙は存在していない。
神・マーヤが行為しており、神・マーヤが自我を使用している以上、その自我を自我として、分離して区別を見ているのは
思考の目であって、意識ではない。
意識に於いては、全てが私であり貴方である。進んでいるや遅れているとの時間感覚や自他の区別は存在していない。
■誰が真実か嘘かの感覚:
虚偽を虚偽とみて、真実を真実と見ている観点は、それは高次元界の目ではあっても心の目であり、意識の観点ではない。
識別とは、虚偽と真理を識別することであるが、それはあくまで心の次元であり、虚偽の中に真理を見るのが気づきである。
気づきの意識に於いては、虚偽と真理の両者の中に真理を見て、全ての虚偽の中に(マーヤである神の幻術の中に)真
実の神を見ているのである。「見るものは見られるものである」との気づきの意識の目であるからである。
その善悪の識別とは、如何に正確で鋭利な峻別であっても思考の段階であることを示している。
■到達感と離脱感・堕落感:
意識に於いては、終着点は既に出発点にあり、最初から旅はなかったのであり、旅に出た夢を魂が見たのである、と認識している。
気づきである意識の中には、解脱することも、悟ることもないからだ。既に解脱しているからである。
その気づきの意識の中には到達するという時間感覚は存在していない。最初から到達しているからである。
悟りや解脱とは、至ることや成ることではない。既に在ることである。
気づきである意識は、既に悟っており解脱しているのであり、悟りに至ろうとすることや解脱に至ろうとする「なろうとする」
ことは起こらない。その成ろうとしたり、到ろうとする事が既に在ることから遠ざかる動きであり、それは無明の働きである。
そこへと頂上に至ったという頂上感や到達感は思考の感覚であり、その体験や知覚や認識・・・それは真実ではない。
それは心の次元のマインドの体験であり、気づきであり非対象・非思考の意識のものではない。
神から分離したことは最初からなかったのであり、自分自身である意識から離れたことは最初からなかったのであり、
神から離れたことは一度もなかったことに気づいているのが気づきの意識である。
■選択すること:
選択は、私と言う観念があるところにあって、私である気づきの意識には選択はない。
従って選択がないところには自由があり、行動ではない、神の行為がある。そのときには自意識による行為はなく無為がある。
即ち行為していない実感がある。行為している実感は選択に基づいており、その選択は「私は個人で自由意志があり行為している」
という錯覚をしている私と言う観念の思考そのものであり、それは無為であるところの気づきの意識ではない。
私である気づきの意識の時、選択はなく、行為もなく、自意識もない。
■自己関心:
意識は私やあなたの所有ではないので自己関心や、自分が他人にどう思われているかの関心は全く持っておらず
その自己に付随した、自分が褒め称えられることや、自分が卑下されることや、謙譲することなどは自己の観念か
ら発生している。
この自己関心とは利欲心であり、利欲心の極みこそ神に至ろうとすること、“神のようになろうとする”ことである。
■美醜の差異の感覚:
気づきの意識であるなら、全ての中に美を見て感動している。そこには美醜、善悪、嫌悪という差異の感覚は存在していない。
思考だけが条件付けに基づいて美醜・嫌悪・善悪という差異の感覚を有している。
■自分が謙虚であること、自分が自由であること、自分が愛があることを意識していること:
意識は愛であるから、自分が愛であり、自分が善行をし、よいことをしている、等という自己を対象化している知覚は有さない。
自己関心や自意識はそこの気づきの意識にはないからである。
自分は謙虚であり、自分は真我であり、悟っており、愛に溢れている等と自らのことを意識したり、自覚したりすることは
自我である思考の特徴である。
気づきであるなら、思考の特徴である自己というものを自覚したり、自意識を感じたり、自己を対象化して見る事はしない。
従って「私が謙虚である」とか、「私には愛に溢れている」などの感覚は発生しない。それは自己撞着であり、矛盾している。
愛があるとき私はいないのであるから。その私が意識されない。
愛が愛に気づいているのであり、自由が自由に気がついているのであり、気づきの意識が気づいているのであり
私が愛しているのでもなく、私が謙虚なのでもなく、私が自由なのでもない。それらを知覚している私がいないのである
そこには何処にも貴方と分離している私は存在していない。私が見つからないのである。
愛は自分が愛していることを自覚していない。愛のなかには私と貴方の区別がないからである。何故なら愛とは私のものでも
あなたのものでもないからだ。愛の中では私もあなたも一つであるからであるからだ。
真我は自分を真の私であると意識していないし宣言したりしない。何故ならその宣言する自己そのものが存在していないからで
ある。それが、真実の私であり、気づきの意識である。
■思考と気づきを分離して見ていること
思考は意識を知らず、思考自身を知らない。
思考が色々と次元の全てを思考したり、その思考自身を思考することが出来るのも、意識が在るからであることを、思考は知
らない。
思考が思考として分離して知る事が出来きるのも、思考が思考できるのも、思考が思考を思考することが出来るのも
意識が基底にあるからである。
にもかかわらず思考は、自分である思考しか存在していないと信じている、何故信じているかと云えば、思考以外を知覚でき
ないからである。その知覚が実は根源が創造している一部分であることを思考は理解していない。
この思考である「私と言う観念」が実存できているのは、気づきである意識が存在しているからである。
気づきである意識は、思考や知覚とは異なり、熟睡や夢見や覚醒によっては妨げられない。この真実の目はこの思考の知覚な
どによって中断され途切れることなく常時24時間続いている。従って熟睡によって途切れるものは思考であり意識ではない。
対象があって知覚している見は、思考の見であり、対象のない気づきの目ではない。
気づきである意識は、思考ではないから、思考したり、知覚したり、見たり、聞いたり、味わったり、感じたり、思ったり、
意志したり行為したりすることがない。それに引き替え行為主体は行為の結果を引き受けるものであり、輪廻している
「神の演技である自我」である。
■悟るとか解脱すること:
思考である「私と言う観念」に於いては、解脱するとか、到達するという観念が存在しているが。その悟りとは私と言う観念に
よって欲求され仮定されている事柄である。意識に於いては、自他の区別もなく、時間も存在していないので、解脱すべき
私、悟るべき私、が存在していない。既に悟っており、解脱であるからである。
その探求や修行等により段々境位が高まっていく等の自己に関与してのレベル等の進捗感は思考や心にだけあることで
気づきの意識に於いてはない。
心、思考に於いては、高次元や低次元の次元界があり、等級があるが、それは常に分離差別に束縛されており無知の中にある。
気づきである意識は既に悟っており、既に全体であるから、悟ることも解脱することもない。
その徐々に意識が拡大していく変容は気づきの意識ではなく、分離そのものである思考という次元の諸体の感覚なのである。
肉体をはじめとして諸体と自我は神の道具であり、心は拡大するが、それはあくまで心の領域であり、心の次元である。
この心は自我であり、自我は、自分が行為していると錯覚している。
■同一化すること逃避すること:
良いこと、善を受容し、苦痛や不利益を回避し逃避したり、その逃避するために一体化して避けようとすることは思考の
特徴である。恐怖から逃げようとすることは、実は自分(恐怖)から逃げようとする思考である恐怖の特性なのだ。
行為や起こっている出来事や肉体や思考や諸体を、自分だと錯覚している私とは「私という言う観念」であり思考である。
その思考である私は、その思考の条件付けに従って、起きている物事やカルマを決して受容しようとはせずに、逃避
しようとしてしまう。自らが自ら逃げようとすることが思考の特徴なのである。
それは起こっている出来事や運命やDNAを自己と同一化している思考の記憶の特徴の一つである。この「私と言う観念」が
肉体と自己同一化して、自己が行為していると錯覚したのである。その錯覚している「私という観念」を魂が自分だと取り違
えたので輪廻に巻き込まれているのである。
■次元の区別、善悪の認識:
次元の区別がないところが気づきの意識であり、高次元と低次元、善と悪の区別と分離があるところが思考の領域である。
これが輪廻している三界という現象界である。
自分と他人、聖者と俗人、神と私の区別をしているのが神のマーヤである心であり、その心の記憶が思考である自我だ。
如何に真理に到達し、真我と一つになったとしても、気づきである意識・・・非対象、非思考ではないのであるなら、それは
虚偽の体験であり、マインドの巧妙なる罠に陥っているに過ぎない。
「見るものは見られるものである」を直覚し、正しく理解する中に次元を超えた真実の「見」がある
偽物に満足することは虚偽に満足することである、私ではないものを私だとすることである。真実の私には対象はないからだ。
■私を高次の私と低次の私に分けること:
自分を肉体の私と記憶の私である自我とに分け、また現在のパーソナリティーである自我と、魂の私とに分けるのが思考
自身である。
真の私に於いては神しか見ることがなく、全ては神の私に統合されており、自己は全体なる私に統合されていて分割され
ることがない。
肉体の私も神が使用しており、神が行為しており、記憶である自我も神の私が演技しており、魂の私もブラフマンであるアー
トマンの神の私が使用しているのである
■識別ができないこと:
思考や想念は識別が出来ない
思考には内部である真の私からきたるものと、外部である諸体や肉体や脳を経由して来ているがそれを明確に識別することが
出来ない
また、思考や想念には、言葉と思考を明確に識別することが出来ない。言葉は思考ではなくて、「本来の言葉」から派生している。
その「本来の思考ではない言葉」が言語に分節化してきたのであり、それは、思考とは異なっているし
思考にも次元の差異があり、内部からなのか、それとも自我の記憶からなのかの発生してきている次元が異なっていることの
識別が出来ない。
また心と思考をごちゃ混ぜにして、しまうのも思考が識別することが出来ないからである
心は神の使っている道具であり、各次元を降下してきており、上位の次元はより精妙なる心であり、その心が「私と言う観念」
によって捉えられると思考となり、さらにその思考が記憶となって自我を形成している。
その記憶の自我からの反応も思考であるが心ではない。
これらの明確な識別を、この自我からの反応である記憶には出来ないのである。
以上は久保栄治の観念であり、信じていることである。
以下のことが感じられ、実感され、直覚されるとき、おそらく自己が脱落するのであろう。そしてその自己とは「私の自己」ではなくて
『神が使っている、数え切れないほどの「神の自己」』なのである。
実際には通常の人類が考えている主体とか、個人的に輪廻転生して、神の元に戻る私とは、 神の幻影・マーヤであり、気づきの私ではない。
分離している私や、神以外のあなたは非実在なのである。神だけがいて、神だけが行為し、神が人類や生物や無生物として生きておられるのである。
その転生している私こそ、神が「私と言う観念」を使って、「自分が行為している」「私が思っている」「私が生きている」「私は悟った」
「私が苦しんでいる」「私が感じている」「私が知覚し、認識している」「私が転生している」と思いこんでいる「神の演技の私」なのであり、
その思い・錯覚も根源たる神が為している。為しているのも神であり、感じているのも神である。錯覚しているものも神の演技である。
神が私を使って演技をされているのであり。神以外に私はいないのである。
脳や、肉体や、生命や、諸体や、実感や、思考や、心や、悲しみも、感動も、失望も、絶望も、五感や、霊感や、知覚や、超知覚も、
そして、認識や、記憶は、むろんのこと、この出来事や人生も、運命やカルマも、そして
我々個人たる主体の本質であるところの「私と言う観念」も、神が生み出し、神が使っておられるのである。神だけが生きているのである。
肉体や諸体の行為と同様に・・・
神は外部だけが神なのではなく、内部も既に神以外のものは、何も存在していないのである。
この「自分が」、「私は」、「私の」、「私が」、という個人・人格・主体こそ神が、心と思考を使って、生きておられる神の演技である。
といえる。
個人がいて、苦しんで、戦争をして、飢餓があり、善と悪があるかのように神が、この心や思考を使って生み出した「自我」を通じて、自らご自身が
演技を為されて、自我として実感されている。自我として錯覚されている。神以外に既に何もいないのである。神以外に私がいるという錯覚を神ご自
身が、ご自身にお与えになっておられるのである。
神がそのような「映像」を、統覚機能の意識の座に映し出されているのである。
それを統覚機能である魂が、自らを通じて映し出されているのに、その「神が演じている自我」を自分だと錯覚し、転生に巻き込まれているのである。
劇場の観客が、劇中のその物語に巻き込まれてしまっている、訳である。
けれども、それを映像だと見ているものは、巻き込まれていないところの、神であるアートマンの気づきの意識である真の私である。
演じている神も、観客である神も同一の同じ神である。
本当は、自他に分離して転生を続けている私はいない。それらは映像に過ぎない。私やあなたはいない。実際は神だけが在る。
”私が実在しており、神の元に戻るのだ”と、さも個別の私がいるかのように、統覚機能が、映像に巻き込まれて思い込んでいるだけだ。
分離した個人は誰もいないのである。神だけが全てのすべてである。
私も神の演技であり、同様にあなたも神の演技である。地球の全ての人は神の演技である、否、宇宙の全ての兄弟が神の演技である。
。
アートマンはブラフマンである。
神以外には誰もいないのである。この現象界は神が演技する神の劇場なのである。