自分を見る事ができるのは、どの私か
私は以下のように思っている
クリシュナムルティーに「見なさい」と言われている私とは、どの私か
それは「見なさい」と言われているからには、「見る事」が可能な目を持っている私であるに違いない。
それは‘見る事のできる私’に相違ない。
クリシュナムルティーは、目がない私には「見なさい」とは言われないからである。
記憶の私とは、思考の記憶が生み出している私なので、
その記憶の私には、記憶の反応しかできず、見る事ができないのだ。記憶も、記憶の反応も両者共に思考である。
従って、この記憶の私とは、単なる反応であり、目がないので見る事ができない。
思考とは想念の流れであり、またそれは自分が出している想念でもあり、純粋なる言葉ではない。
純粋なる言葉が無知によって分離した状態が共通元言語である思考であり、それが更に言語器官を通じたとき各国の言語となる
思考は、脳によって条件付けられており、脳は「私と言う観念」によって条件付けられ覆われている。
思考は、脳を通じて受けとられ、脳を通じて行為を為しているのは根源であり、「行為に関連しての思考」を使っているのは根源であり
行為に関連しない思考を発しているのが記憶及び現在のパーソナリティーである。
この思考とは、「私という観念」からでもあり、その思考の記憶の蓄積が人格個人であり、その思考の記憶の蓄積の反応が自己だと錯覚される。
行為は根源がこの肉体を通じて起こしており、この行為とは、根源の媒介である肉体・個人・人格を通じてである以上は
この根源によって行為している肉体・個人・人格がカルマを負うのである。個人や人格が自分が行為していると信じるからカルマを背負うのである。
だが、このカルマを負っている個人・人格とは根源の演技であるから。根源がカルマを開展させ、輪廻を維持しているともいえる。
カルマは魂それ自体ではなくて、魂が自分自身だと人格の私を信じた(付託した)ことで、魂がカルマに巻き込まれているのである。
さて、この記憶の私に、見えている内部と外部の世界とは、記憶の世界のみであり、記憶自身の投影だけを記憶自身が知覚している。
記憶の私とは、見る事が出来ているのではなく、ある特定の記憶に従って、その記憶の条件付けられている様に「自分が自分が」と機械的に
反応しているだけである。
実際の五感というものの上に記憶が投影している心象や具象や抽象を上乗せして、その歪曲された五感と記憶の内容を、内部と外部に
投影して知覚しているのである。「自分がこうなのも、あいつが悪いからだ」と思い込む・・・その記憶が内部と外部に投影されているだけなのに。
死後のバドル界と似ていて、記憶が投影している世界が、根源の心によって投影されている世界の上に二重に覆い被さっているのである。
「自分とは主体で、個人なのだ、自分が行為している」と、そのように思い、実感し、錯覚するよう、「私と言う観念」によって条件付けられいる私、
その人格とは根源が演技している私である。
記憶の私とは根源が使っている道具なのである。
人格・個人とは自分が行為していると実感し、そのように思うように仕組まれているし、「‘自分が思考し、行為している’と思うように仕組んでいる」とこ
ろの根源が使っている道具である。
個人・自我とは根源の芸術作品なのである。
だから、この記憶の私とは、反応する事はできるが、「思考なく見る事」「私なく見ること」ができないのである。この人格そのものが私と言う観念だからだ。
それでは、現在のパーソナリティーに対してクリシュナムルティーは見なさいと言っておられたのであろうか?
現在のパーソナリティーとは、アートマンの系列であり、神我→真我→魂→現在のパーソナリティーと続いている至高なる純粋意識の一部であり
真の私が、輪廻が起きている三界の接点に降下したのが鏡である魂であり、
さらにこの魂である松果体(肉体のではない高次元の接点)から、前頭葉に放射されているのが
現在意識であるところの、脳内中心部の私である。魂が脳に結びついたので、肉体は真我の媒体であるとも、その意味ではいえる。
この現在意識の私が、現在のパーソナリティーであり、自我とも言われている私だ。、
根源からの思考や、その思考の反応である‘記憶の自分’のことを、私だと錯覚している私である。
自分ではない記憶の私(人格・個人)を、私だと、その記憶の私に真の私を付託しているのが現在のパーソナリティーである
だが、この現在の私とは思考ではなくて心で成り立っている。
それは、現在のパーソナリティーとは魂の一部でもあり、魂とは純粋なる心であり、思考ではないからである。本来は純粋なる言葉でもあるのに
ただこの心が濁ってしまっているのだ。
自我とは平たく言うと魂である鏡の表面を覆っている色眼鏡であり、透明にならない限り「鏡である魂」に真我を輝かせることが出来ないのである。
だから、この現在の私とは、自我であり、観察者でもあるので、心を超えている次元の目ではなく、心を超えて見ることが出来ない。
心とは、自分自身である心の内容自身を、内部と外部とに対象化して見ることができるのみである。
だから外部は内部であり、内部とは外部なのである。真我からすれば、この外部である現在の私も、分離なき一部だとおもわることだろう。
この現在の私とは、心を超えている目ではない。
だから心を超えている非対象、非思考、非分離である純粋意識を見る事はできないのだ。非対象、非思考、非分離とは心の状態ではなく
純粋意識の状態だから、現在のパーソナリティーの私は、それを知る事はできない。現在のパーソナリティーにとっては未知の私なのである。
その私・真我は非分離の中で、すべてを私と見えているのに、現在の私からは分離の中で真我とは、未知なる私となってしまうのである。
またこの現在の私とは、自分に目があると信じ込んでいる私であり、クリシュナムルティーに「見なさい」と、自分が言われたのだと自惚れていて
‘自分が見ているのだ’と錯覚している私なのである。
神が行為している肉体や、その根源から来ている思考に対しても、
また、その思考の記憶に対しても、「もっと良くならなければ」、「もっと、進歩してこうあらなければならない」・・とか
自他の人格に対して非難し、善悪をいい、判断し、考え、悩むのである。
この現在の私が、「行為している肉体の私」や、「人格の私」を観察して、自己改善に努めようとするのである。神が行為していることを知ら
ないからである。
だが、この現在のパーソナリティーという自我の私には、心で出来ている目があることにはあるが、この目とはサングラスなのである。
この現在の私とは、「脳を媒体にして起こった思考の記憶である私」のことを自己と勘違いしている「心」であるから、
クリシュナムルティーの言うような「思考なくして見る事」ができる私ではない、
この「正しく見る事」ができないのが、現在のパーソナリティーの私である。
なぜなら、この現在の私のそのものの本質が心であるから、心を超えて見ることが出来ないからだ。
マインドは心であり、こころを超えている次元を認識することも、見る事も、理解することも、心にはできない。
主体と客体の分離のない愛そのものである純粋意識を理解しているのは、その純粋意識それ自身である。それはマインドではない。
クリシュナムルティーの言うあるがままを分離なく見ている目とは、心を超えている次元の目のことを言っているからだ。
この現在の私とは根源と同じの“更なる根源”からの精妙なる純粋意識で成り立っている私、即ち真我から発出している魂からの私であり、
“魂の内奥からの根源の至高の意志”ゆえに、その現在の私自身は、魂の内奥である目とつながる運命を持った私であるからである。
ただ、現段階では心で成り立っている私であるので、心というマインドでしか見ることが不可能である
鏡にたとえれば鏡の表面を覆っているサングラスなのであるが、透明になって純粋化すれば何ら問題はないのであり、消滅する必要はないのである。
クリシュナムルティーの言う「私なしで見なさい」。「心なしで見なさい」という事はこの私に対して言われたのではない。
ではクリシュナムルティーはどの私に対して見なさいと言ったのであろうか?
それは魂の私に対して言っているのである。
魂の私とは、
根源の演技である肉体や諸体の私ではなく、
思考の記憶である人格・個人でもなく、
現在のパーソナリティーでもない
魂の内奥の真の私からの統覚機能である私なのである。鏡である私なのである。
この魂の内奥の状態こそ、真実なる目そのものであり、あらゆる時空間にある純粋意識という目それ自身でもあるから、既に思考なく、
判断なく見ている至高の私である。
クリシュナムルティーはこの魂の私に対して「思考なく」、「私なく」見なさいと言っているのである。
それは即ち、魂に対して魂の内奥の真の私である自分自身に戻りなさいと言っているのである。
同じように、ラーマクリシュナやシャンカラは、どの私に対して、‘《あなた》は行為していない’と言っているのであろうか?
一体どの私に対して「あなたは行為していない」「あなたは思考ではない」「あなたはそれである」と言っているのであろうか
それは記憶である私、即ち人格や個人である私、根源の道具、根源の演技であり、自分が生きて、自分が行為して、自分が考えて、
自分が生まれて死ぬと、実感するように、仕組まれている私に対してではない。
また、それは、この上記の記憶や思考と全く同一化している自我、現在のパーソナリティーの私に対してでもない
またそれは魂の私に対してでもない。
魂とは、真の私の現象界に顕現してきている三界に接点を持っている真我の一部分であり
統覚機能である私であり、現段階では殆どの魂が自分を認識主体である真の私であると錯覚している知覚主体でもある。
この魂の私は、物質界とアストラル界とメンタル界のことは分かっていても、さらに上位の次元であるスピチュアル界以上の
思考のない非思考、非対象の次元のことは分からないし、知覚できない。アチューメントという高次知覚の領域、分離していない
非分離、非二元の次元の事が理解出来ないからだ。理解するためには帰還しなければならない、自分自身である真我に戻るのだ。
だから、この魂の私は、現在の所は、自分が行為し、自分が輪廻して、自分が個人だという錯覚をしている現在のパーソナリティーに
覆われているのであるのである、それ故に現在のパーソナリティーが純化する必要があるのである。
それ故に、クリシュナムルティーは『魂の私』に対して「行為していないことを見なさい」、「見るものは見られるもの」でしょう!!と
自身である魂の内側の状態を指摘され、強調されるのである
シャンカラは、この魂である統覚機能の私に対して「‘あなた’は思考ではない」「‘あなた’は行為していない」「あなたはそれであり、普遍である」
といっているのである。
これらの真実は真の私の一部である魂に対して、
非顕現の私から述べられている事柄なのである。
それにも拘わらず
現在のパーソナリティーである私や、神の道具である私達とは、(自分が行為している実感を持っているように根源によって造られている観念たちは)、
シャンカラが言われたのであるから、‘自分‘は行為していないのだと、懸命に観念するのであるが、
それを思考しているその私自身が、そのわたしそのものが、神が与えられている「自分は行為しているという」観念であり、行為していない真我ではない。
それを観念で分かったつもりになっている、「その私自身」が、観念そのものである心から成り立っている事に気がつかない。
それ故に、その現在のパーソナリティーにとっては、観念と知覚・感覚が矛盾した状態となってしまうのである。
実感と観念が未だ乖離しており、いくら観念で「私は行為していない」と言っても、魂の内奥と繋がっていない現在のパーソナリティーにとっては
いまのことろでは実感されるのが神のマーヤであり、「自分が行為しているのだ」というように実感し、知覚されるのである。
現在のパーソナリティーが真我と充分に繋がっていないからである。
この感覚や知覚というものは、現在の私が段階をレベルアップして上昇し、それぞれの上位の私の感覚や知覚が意識の座に意識化されるにつれ、
魂の内奥の意識と現在の意識が繋がり始め「私は行為していない」が偽らざる実感となるのである。
そしてそのときには、現在のパーソナリティーである自我は透明化し、魂は内奥の私と繋がりアチューメントの高次知覚段階を超えた、テオーシス
の段階の私が、現在意識という意識の座に顕在してくる
それは、自我がその段階に昇ったのではなくて、その次元の元々ある真我の意識と、真我の知覚に魂が繋がったのである。
にもかかわらず、虚偽の教師が虚偽を言う
それは、
この記憶の私や、現在のパーソナリティーにたいして(現況では自我のままであり、まったく真我と繋がってもいないにも拘わらず、)
真我の状態のことを、そのまま現況の未成熟な自我に当て嵌めて教えることによって、未だ心が浄化していない段階なのに、(自我が魂と
繋がってさえいないのに)自分は既に真我だと、自我が錯覚してしまうのである。既に真我であるのは真我であって、自我ではないのだ
自我という現在のパーソナリティーは現象界にあり、時空の制約を受けているので、段階的に時間の制約を受けているから、時間の制約を
受けていない真我とは違うのである。
偽の教師は、それにも拘わらず言うのだ、即ち「人類はワンネス」「自我は存在していない」「私たちは行為していない」「あなたは存在していない」と
これらの実際の真実の意味とは、現在の私や自我がそう思い込むのではなくて、真我は既にそうであると言うことなのに、逆の意味での付託がされている。
そういうことであるから、未だに魂の内奥と繋がれていない現在の私に、そのように導くと言うことは、
自我である現在のパーソナリティーを更なる迷妄に陥らせることとなってしまうのだ。矛盾させてしまうのである。
ここに、偽物のアドヴァイタの危険性があるのである。なぜなら、真実の非分離の知覚と実感がない私達、全くの無知の現在のパーソナリティーに対して
「これが真我の状態です」といって、全く真我の非対象、非思考、非行為とは逆の「変性意識状態である霊的神秘体験」とを体験させ、その虚偽の体験を
真実と取り違えさせてしまうからである。
ワンネスや、一体や普遍や「行為していない」という観念や言葉は、未だ分離の束縛から解放されていない、現在のパーソナリティー
にとっては、正しい自己認識がない場合、その観念がまさに麻薬の働きをして、真我と繋がっていると錯覚させ
真我と繋がることを遅らせてしまう結果となってしまうのである。
それは結局は真実の自己の認識から遠ざかることだからである。これは実に巧妙なる欺瞞の道である。
従って、実際の実感として「根源が行為している」「私は行為していない」と言っている私とは、非顕現の私であり
その私とは魂の私ですらなく、勿論、「根源の演技であり記憶であるエレメンタルの私」でもなく、現在のパーソナリティーではない。
それは真実の私、即ち魂の内奥の真の私が直覚の実感から、真我が話しておられることなのである。
「私は行為していない」とは、真我の見ている現実であり実感なのである。自我のではない。自我とは根源の道具であり
行為していないのに行為していると思っている「私という観念」と同一化している現在のパーソナリティーであるからである。
現在のパーソナリティーは根源からの「私という観念」によって、‘自分が行為している’、‘自分は個人で、自分の人生というものを
生きている’。‘私個人が生まれて死ぬんだ’。と実感するように条件付けられている観念の私を自分だと思っているのであるから
この現在のパーソナリティーという自我が、(行為している肉体とその自分を見て)この自分が行為しているという虚偽の実感から解放されることは
現在のパーソナリティーの元である魂のさらに内奥の私と現在のパーソナリティーが繋がらなければ真実の実感・高次知覚は生じない。
それは根源の意志がなければ無理なのであって、自我である現在のパーソナリティーの意志ではない。
自分が自分の魂の内奥と繋がること・・それは根源が起こしておられる。すべての魂と現在のパーソナリティーにそれは
必ず起こる。なぜなら現在の私とは、現段階では細くても、既に魂の内奥の私に繋がっているからである。
そしてその「行為していない」との知覚を伴っている本当の実感とは非顕現である真我の実感なのである。自我の実感ではない。