浄化された心とは純粋精神である
(ラーマクリシュナに対して質問者)
あのお方は私たちの思惟を超えていると言われておりますが
(ラーマクリシュナの答え)
いいえそうではありません
確かに、あのお方はこの心で知ることはできません。
しかし、浄化された心によって知る事ができます。
この知性では知る事はできませんが、しかし浄化された知性によって知る事ができます。
女と金への執着がなくなりさえすれば、その人は浄化された心と浄化された知性になります。
そのときには、清らかなる心と、清らかな知性は一つのものです。
浄化された心によって、あのお方を知ることはできます。
純粋精神であるその神は
私たちの言葉と心を超えているのではなくて
そのお方は、浄化されたこころによって、浄化された知性によって、
浄化された自我によって知る事ができます。
私達であるところの、この濁って、何も見えない、見る事のできない汚染水でも、水であることには変わらない。
放射能や汚水にまみれようと、浄化されれば純水となって、透明なる水となり輝く太陽の光りが燦々と降り注ぐのである。
この点で、私達は思考が即、心であるかのように間違って捉えていたように思われる。
概念的に思考と心を同一視していたのである。
思考にも我欲の思考もあり、聖なる思考もある。それらの思考を心と一緒くたにしてみていたのである。
私達は心であり、この心と言う水が多くの汚泥にまみれ、透明でなくなり、私と言う観念に染まってしまっているだけなのである。
私たちは心であり、この心が、同じ心である純粋精神と繋がっているとラーマクリシュナは言われているのである
海のさざ波は大海と一つなのである。
これは、大きな方向転換である。
心が清まれば、純水となり、透明になれば良いだけなのである。そしてこの水とは私達自身に他ならないのである。
今までの私達のとらえ方は、思考と心と意識を、それぞれが別々のものとして捉え、
この心の延長線上とは、全く隔絶したものとして純粋精神や至高の精神を捉え、考えていたのであったが、
ここで大きく方向転換がラーマクリシュナによって行われる。
私達自身であるこの心が濁って、汚染されているので、その汚れが沈殿し、あるべき所にあるように収まれば
問題はなくなり、私達である心という水は透明化して、純粋精神である神の心と一つなのであることが自明となる。
ここに、今までの“思考と気づきの間の障壁”というものが取り除かれていく大きな可能性を見いだすことができるのである。
思考も気づきも、心の中にあるものなのであり、思考があるべき所にあるとき、心本来の気づきが現れるのである。
心が悪いのではない、心を否定してはならない。
ラーマクリシュナの言うように浄化された心によって神に出会うのであるから、心は神の道具である。
心は生命でもある。
心は呼吸でもある。
こころは意識でもある。
ただ現在のところは透明ではないだけなのである。
この心がいのちとして、肉体から離れ、頭脳から離れても、この心は未だ低次思考や低次記憶に汚染されている、濁っている。
この心が呼吸として、五感から離れ、肉体から離れても、この心は未だに自分は肉体であり五感があると錯覚している。
けれども実際の現実は、この心が肉体を去った後は、肉体やエーテル複体は塵に還元してしまうのである。
そして生命である心が、思考や感情や記憶である身体を去った後、それらの思考体や感情体も、それぞれの元素に環流
してしまうのである。
私達とは、呼吸である生命であり、心である。
息をしているいのちが私達であり、心なのである。
ただこの心である私達が、純粋化しておらず、濁っているために、自分たちが普遍なるこころの一部であることに
気がつくことができないのである、とそのように言われている。
私達である心が、生命として肉体に触れて、その感覚や知覚に覆われ、思考や言語を心そのものと取り違えたのである。
感覚や知覚や、思考や、感情や、記憶は、確かに心の表面のものではある。がしかし心そのものではない。
心の中の感覚や知覚や、思考や、記憶があるべき所にあるべく様に収まったときに、
心は透明になるのではないだろうか。
心は本来は分割できるものではなく、単なる思考ではないのに、それを私達は自らが濁っているので、私の心、貴方の心と
区別し、分割し、個別の肉体と心を同一視しているのである。
心には本来、私の心も、貴方の心もないのである。
神の心なのである。と教えられている。