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心が個別の私を生み出している



「私は行為していない」と実感して、そのように言っているのは、どの私だろうか?

実際に行為していないし、行為をしていない私とは、神我の私であるのではないか。

その私とは、真我のさらに深奥である私であり、行為に関わっていない私であるからであろう。

その私とは、宇宙の全てである神であるわたしである。

老子の無為とはこの宇宙意識そのもののことである。



けれども


そのようなことが書かれている神我の状態にいる聖者の本を読んで

自分が聖者になったつもりで、「私は行為していないのだ」と自我が言っても、それは違う、それは嘘なのである。

その自我は嘘をついているのだ。自我とは”行為していると思っているが、行為を起こしているところの根源の道具”だからである。

そういう矛盾した私・自我とは、実際には“行為の実感”に溢れているからである。



「私は行為している」との実感があり、この行為者の認識と感覚があるにも拘わらず、

これらの本によって教えられたような観念で、「私は行為していない」などと言って嘘をついているのである。

これは自己矛盾である。

それこそ自己欺瞞の状態に陥っているわけである。

なぜなら、自分には行為しているとの実感がしっかりあり、「自分も相手も行為していると思っている」にもかかわらず、

私は行為していない・・と虚をついているからである。

なぜ嘘をついているのかと言えば、現在の私達の段階での私の主体意識とは、殆どが、この「観念の私」で占められているからである。



自我である私には、必ず行為の感覚があり、自分が行為していると思い実感するように仕組まれているのである。



(けれど実際に行為しているのは、マーヤである神であり、その根源なる神が肉体を使って行為をされているのだ)

(マーヤが、「心である私と言う観念」を使って自我を生み出し、その自我には行為しているという錯覚を生み出すように仕組まれているのだ

マーヤが自我を生み出し、自我を使って、「行為している肉体」を自分が行為していると思わせているのである)



「私は行為していない」と言っておられるのは神我だけである。

「観念の私」である自我は、実際に頭脳に浸透して肉体と同一視しているので、自我には自分が行為しているように思えてしまうのである。

“神によって行為をしている肉体”と自我は頭脳を経由して結びついているので、

自我は、自分が行為しているのだ、と、どうしても思い込んでしまうのである。



肉体も、諸体も、根源なる神によって動かされ、行為しているのである。

そして、それ故にその肉体と同一視している自我は自分が行為していると思い込むのである。

さらには、肉体に入った魂すらも、その「私と言う観念の自我」と自己同一視して自分が行為していると思ってしまうのである。


私も貴方も同じ、唯一の根源が行為している。

肉体や諸身体を動かすことができるのは純粋精神だけであるとラーマクリシュナは言っている。

敵も、味方も、悪い人も、善い人も、行為は同じ御方が行為している。

にもかかわらず、私と言う観念であるこの自我は分離しているので

味方の中にも敵の中にも同じ唯一のマーヤである神を見ることができないで、あのひとはいい人だが彼奴は悪い

かれは役に立つので味方だが、こやつは敵だ、などと言ったりするのである。

このような肉体を私自身と見ている「観念の私」であるにもかかわらず

その舌の根も乾かないうちに、「私は行為していない」などと(全く真理を理解する神我と繋がっていないのに)真我であるかのような嘘をつくのである。





私と言う観念である自我は、肉体と同じように自分が動かされて動いているのに、自分が動いて、行為していると思い込んでいる。

そのように思い込むように、思わされているのである・・・根源なる神が自我を通して演技しているである・・しかし、このことを誤解しないで

理解出来るのは自我ではなくて真我である。



では、その自我とは一体何だろうか?

その自我とは「私と言う観念」であり、マーヤによって生み出されたものではないか?この私と言う観念が肉体とを自己同一視して、

他人とは、私とは別の個人であり、その他人が行為していると思い込むことで、分離葛藤の渦が引き起こされているのである。

この肉体と一体化した「私と言う観念」は、魂の周りに纏わり付くことによって、さらに、ますます強固なものへとなっていくのである。

しかし同時に自我とは、肉体と同じように神の道具なのである。神は心を使って表現されており。その心が私と言う観念である二元性でもある。

その神の芸術劇場は真我の魂によって照らされ、認識されており、魂はその渦中で魂から派生している現在のパーソナリティーが自我として

演じさせられていることに気がつかないのだ。この高次の意味でも「見るものは見られるものである」でもあるといえようか。





では、この神が行為している事を「行為は神が行為しているのだ」と本当にいうことができるのは、どの私なのであろうか?


それは、その神を実際に見ているもののみである・・・

・・・その行為をおこさしめている神(マーヤ)を実際に見ているのは、神我のみではないだろうか?

自我はそれを見ていない、見る事はできない。自我はその錯覚の一部だからである。
(参照:http://kuboakoru.web.fc2.com/2008.09.23.html)

もし、自我がそれを見たなら、それはもはや自我ではなくて真我であることだろうから・・・である


行為とは神・マーヤが肉体を使って行っており、また自我を使って自我には自我が行為しているように思わせているのを、

はっきりと見ているのは、神を見ることのできる神我である。その状態ではもはや善悪は存在していないのである。



それを言うのは、自我でもなく、魂でもなく、さらなる奥の次元の私である。

にもかかわらず、

それを真似て、「私は行為していない、神が行為しているのだ」と、真我でない自我が言ったりするのは、笑止千万であり自己欺瞞である。


自我とは、神を知っていないので、「行為は神がしている」と自我が言ったりするのは、単なる観念でしかないのは明らかである。

自我は「自分は行為していない」「行為は起こっている」「神が行為している」と口先で、鸚鵡返しに言ったりしていても

実感として、行為している感覚があり、その実感で、自分も行為しているし、他の自分である他人のことに対しても「他人が行為している」と

しっかりと実感して、そのように思っているわけである。


だからこそ、その他人を「自分と分離した他人」として認知し、他人のことをああだこうだと、評価したり判断したりするのである。

起きている事や運命やカルマに対しても、好き嫌いや、受け入れや拒絶、これはいいが、あれは困るなどのような、評価判断、逃避や受容

、自己同一化などをしてしまうのである。

本当の実感としては自分の事も、他人のことも、起こっている事も、運命も、カルマも、神(行為を起こしている神であるマーヤ)の演技だと

思っていないし、その直覚もないのである。

自我の私は嘘をついているのに、その嘘をついていることには自我は気がつかないのである。

口先だけで、「私は行為していない」と、直覚が起きていないにもかかわらず、「神が行為している」などと言って、嘘をついているのである。


だから、「自分は行為していない、神が行為している」と軽々しく言ったりしている者は自我であり、自我を自分だと信じている魂である。


魂は、「私は行為している」と思っている「私という「観念の私」自我に取り囲まれている。

それは根源なる神・マーヤが自我を使って行為しているとの錯覚を起こさしめているからである。

そのように、魂とは、「私は行為していると思ってしまっている私と言う観念」にとり囲まれている。

それは神なるマーヤが自我を使って、自我が行為していると思い込んでいる様を魂が見て

その自我と一体化している魂は自分が行為していると錯覚してしまっているからである。



自我は、自分が行為していると実感しているのである。

だから他人が行為していると思っているのである。

自分が行為しており、他人もまた行為していると実感しているのは「私と言う観念である無知」の特徴であると教えられている。

なぜなら、実際に神なるマーヤが、自他の肉体を行為させることで、この神の道具である自我を使って自我の行為感を起こさせているからである。

なのであるから、自我が自分が行為していると思ったり、自我と一体化している魂が自分が行為していると思うのは

無理からぬ事のようにも思われる。



神が肉体を使って行為され、さらに自我を使って演じられているのであるから、自我にとっては自分が行為しているように思われてしまうのは

無理からぬ事であろうか


以上のことは、私・久保栄治が、実際の覚知から話しているのではなくて、思考から話している、私は覚醒していないからである。

私はこれらのことを信じている信念や信仰から話しているのである。以上は単なる私の考えであり、思想であり哲学なのである。

私である久保栄治が上記のこれらのことを嘘偽りなく話すことができるためには、神からその目・直覚を与えられなければならない


そうすれば、いつの日にか、嘘偽りなく、実感から、直覚から「神が行為されている、私は行為していない」といえることだろう。





※ラーマクリシュナの言葉

 1:外界の意識のある状態ー心は粗大体と精妙体に

 2:半分外界の意識のある状態ーそのとき心は原因体、原因体の喜びに入って

 3:内奥の意識の状態ーそのとき心は大原因に融合しています

 粗大体とは、即ち食物からなる蓋被です。

 精妙体とは、すなわち意と識からなる蓋被です。

 原因体とは即ち歓喜からなる蓋被です。

 大原因は五つの蓋被の彼方です。

 

 心が大原因に没入すると、そのとき三昧状態になります。

 それがニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)です。

 またはジャダ・サマーディと言われるものです。


 目が外を向いていると、粗大なるものが見えます。

 そのとき心は、「食物よりなる蓋被」粗大なる身体にあります。

 その次には、微細なる身体です。象徴身です。

 そのときには心は「意よりなる蓋被」と「識よりなる蓋被」にあります。

 その次は、原因体、心が原因体に働くときは、喜びがあります。

 そのときには、心は「歓喜からなる蓋被」にあります。

 それが、チャイタニヤ師の経験した半意識状態です。




 その後は、心は没入してしまいます。

 心は、なくなります。

 大原因のなかに消えてしまいます。

 心がなくなれば、もう情報はありません。

 それがチャイナニア師の経験した内奥の状態です。

 

上記の言葉から、その心と言われている私と言う観念=自己が
それぞれの肉体やサイコ・ノエティック体や魂に触れている状態を
知ることができる


ここではラーマクリシュナは心というものを、個人の心ではなくて
個人に現れている神の道具と実感しているのだと言うことがわかる



私が心を持っているのではない。私の心なのではない。
(この以下の場合の私とは対象を認識している個別の個我を指している)

心とは、私のものではない。

私が、心を持っているのではない。

その逆である。

心が私を持っているのである。

心が私という個別性を作り出しているのである。


私が他人を嫉妬しているのではない、また貴方が嫉妬しているのでもない。
嫉妬心自身が私と言う主体感覚を持っており、その嫉妬している心が「私だ!」といっているのだ、
それなので魂である自分が、嫉妬心を見て、自分が嫉妬心を抱いていると思っているのだ、自分ではない嫉妬心を自分だと取り違えたのである。
その嫉妬心であり、嫉妬心が生み出しているところの私は、嫉妬心自身であり私ではないのだ。
それは嫉妬心である「私と言う観念」であるものの心である。魂である私が自分ではないものを誤って自分だと確信したのである。


私が神経症なのではない、神経症の心自身が私と言う主体感覚を持っており、その神経症の心が「私だ!自分だ!」、自分が神経症だ
自分が神経症になっていると思っているのである、その神経症は私ではないのだ、それは「私と言う観念である」ものの心である。


私が他人を好いているのではない、好いている心自身が私と言う主体感覚を持っており、その好いている心が「私だ!」、私が好いている
と思っているのである。その好いている心とは私ではないのである、それは「私と言う観念」の心である。


貴女が私を憎んでいるのではない、憎んでいる心自身が私と言う主体感覚を持っており、その憎む心が「私だ!」、「私はおまえを
憎んでいる」と貴女に思わせているのだ。貴女が憎んでいるのではなくて、貴女は「憎んでいるわたしという心はわたし自身だ」と錯覚しているのだ
それで「私はあなたを憎んでいる」と思っているだけである、憎んでいるのは貴女ではなくて、貴女を覆っている、分離した私という心なのである


私が恐れ、私が不安になっているのではない。恐れや不安という心は、私と言う主体感覚そのものであり、心が恐れ不安な私を生み出しているのである。
私が恐れ不安なのではない、恐れ不安がその恐れの私自身なのである、恐れ不安が、恐れ不安を観察している私自体なのである。
その恐れ不安を観察している観察者は恐れ不安自身の心であり、恐れ不安が生み出した、恐れ不安を観察する観察者である。
その恐れて不安な私とは「私と言う観念」である心自体であり、その不安と恐れの心と、恐れて不安な私とは両者ともに、恐れのマインドのものである


この個別の私とは、心のものである。

この個別の私とは心が生み出しているものである。心の状態そのものが個別の私というもの自体である

個別のこの私とは、神が使っておられる「私と言う観念」が生み出している私である。従ってこの知覚し、恐れている私とは、神の演技である。

神が心となって、恐れて、不安になって苦しんでおられる演技をされているのである。

心であるものが私である。心が私と言う観念なのである。根源であるマーヤたる神はこの心を使って演技されているのである。

個別の私とは、「私と言う観念」即ち心なのである、魂である私なのではない。

心が生み出しているもの、それが個々の私であり、それが個々の肉体となっているのである。

個別の私とは、心が生み出しているものである。

そして、その心とは神の道具である。

その心が何処の段階にいるのか、どのチャクラにいるのか、どの次元にいるのかによって種々に意識の段階が異なってくるのである。

心とは、私と言う観念であり、その私と言う観念が個々の肉体や精妙体にはいって

その段階、そのレベルで、それぞれが、それぞれに、個別に自分とは心であると思い込んでいるのである。

そしてその「自分は心であると思い込んでいる私と言う観念=心」はマーヤ・神の道具である。

その私と言う観念=心に、魂は取り囲まれてしまっているのである。

と言うことではないだろうか。