記憶はあなたではない
−在る匿名の聖者の教えから抜粋−
記憶とは思考、心で成り立っており,それは常に古く、瞬間瞬間の新たなるものではない
分離している私とは思考の記憶、心の記憶であり、それはその記憶の内容でもあり
あなたとは記憶ではない
記憶は根源が使用している映像の種子である
あなたが根源である
あなたは記憶でもなく、記憶の中身でもなく、記憶の働きの結果でもなく、記憶している私でもない。
あなたは記憶であるクラウドシステムやネットサーバーを支えている記憶システムを生み出したものである
朝ベッドから目を醒ました私とはあなたではない。
あなたであるなら常に目が醒めているからであり
あなたは眠ったり、朝ベッドから目が醒めたりはしない。
朝と同様に夜、眠たくなってベッドに入って眠ってしまうのは肉体であり
それは肉体及び肉体を私だと思っている私であり
その私とは「私と言う観念」即ち自我であり、自我はあなたではない。
その自我とは根源が演技している私であり、記憶の結果であるものであり、投影されている映像である.
その自我は投影されている結果であって、あなたではない。
あなたであるなら自我のように肉体と同一化して、大脳と共に眠ることはないからである。
あなたではない分離している私を、自分だと思っているのはあなたではない。
自分を肉体に宿っている分離した私だと思っているのは、根源が使用なされている私だ
その私とは記憶で出来ている「記憶の反応の私」であってあなたではない。
コーザル体とは個々の記憶を支え継続させているフラッシュメモリーのようなものであり
新しいPC(肉体頭脳)に差し替えられるが、思考や「私という観念」はネットを通じてフラッシュメモリーに
記憶される、その媒体がDNAである。
肉体はあなたではなく、幽体や霊体もあなたではない。
それらは、それらの行為とともに根源の動かされている芸術作品である。
自分が行為していると思っているもの、自分が瞑想していると思っているもの、自分が肉体を動かして
いる実感のあるものはあなたではない、それはフラッシュメモリーの記憶であり、同時にクラウドの記憶
であるに過ぎない。記憶とは観念であり思考という物質によって蓄積されている
あなたは、それらの出来事も、行為も、運命も、内部である記憶や思考を非難なく分離なく観照している
意識である。
従って自分が行為していると思っているあなたとはあなたではない。その自我とは記憶の反応である。
根源が肉体を動かし行為させ演技し、統覚機能という媒体から投影しているのである。
そしてその肉体を「自分だと信じている自我」を使って演じておられるのである。
これらの「肉体を私だと思っている私」とは根源の表現している道具である。
それらの自我とはあなた自身ではない。
あなたは自我を使っているものである。分離なく観照しているものである。
その行為している肉体を私だと思っている自我とはあなたではない。あなたは記憶ではなく
記憶とそのシステムを観照している純粋空間であり意識なのだ。
その行為されている肉体を(身体を)私だと思っているあなたとは記憶であって
あなたではない。あなたは記憶ではない。あなたは物質である思考ではなくて、意識なのだ。
記憶は根源のあなたが使用している道具である。
そのあなたではない自我を、写しだして、その自我を対象として観察している魂
即ち、統覚機能であり、鏡である私も、あなたではない
何故なら、その統覚機能の私は、自我を自分以外の対象として見ているから分離している心のものだ
この素晴らしいクラウドシステムを構成しているものの一部分であるのである。
その鏡である私とは、本来の「あなたである私」を映す鏡であるのに
私ではない「私と言う観念の私」を私だと思ってしまっているからである。
鏡とは本来があなたを映し出し、あなたを投影する媒体であるから、
如何にその鏡が精妙であっても、鏡はあなたではない、魂とはあなたではなく、あなたを顕す鏡である。
大きくなったり、萎んだり、輝きを増したり、輝きが失せたりする魂とはあなたではない。
決してそれはあなたではない。
あなたは自他に分離していないし、時間や空間に制約されていない。
あなたは記憶でもなく、記憶の反応でもなく、記憶を成り立たせているものである
あなたは全ての私を私そのものと実感しているからである。
そこには善も悪もなく、高低もなく、ここやあそこもない、全てが一つである、それがあなただ。
そこには、あなたはあなた以外を見ていることはないからである。
すべてがあなたであるからである。
あなたは決して、内部と外部に於いてすべての対象を自己と分離していると見ることはない。
何故なら、あなたは見るものであると同時にあなたは見られるものであり、
汝はそれであるからである。
「見るものは見られるものであり」、「主体は客体である」のがあなたである。そこに二元は存在しない。
あなたは思考しない、なぜなら思考とはあなたの道具である心が使用しているものであるからである。
思考は記憶の結果であり、その働きであるからだ。
あなたは対象として自己を見たり、私を見たり、神を見たり、根源を見たり、世界を見たり、宇宙を見た
りはしない。あなたはそれであるからである。あなたは全てと一つだからである。
全てはあなたの中に在り、あなたとは世界と宇宙であり、全てと分離していないからである。
あなたは思考でも心でもない、従って心の特性である知覚や体験や記憶などではない。
思考しているのは、記憶という自我であり
知覚し、感覚があり、対象を知る心の働きのある心の私とは魂であり
知覚して、体験して、記憶している私というのは「私と言う観念」であるからである。
それらの私とはあなたではない。
あなたは肉体でもなく、幽体でもない、霊体でも、高級諸体でも、記憶でもない、心の集合意識でもない
従って行為していることもなく、行為している肉体を自分だと思ったこともない
全ての私という実感のあるものや、全てのあなたを、私ではないと思ったこともない
だからこそ、思考し、経験し、苦しみ、喜び、満足し、不満であり、安心したり、絶望したり、夢を見たり
朝、再び目が醒め、夜眠るあなたは
あなたではない。それは「私という観念」である。
あなたは、この「自分が私だと思っている記憶・自我」にとっては未知なるあなたであるから、
‘自分が’、‘自分の’というこの私と言う観念によっては、決して補足されず、知覚されず、思考されず、
思われず、知られることもなく、体験されることもなく、経験されることもない
その体験も、経験も、知覚も、自分が大きくなることも、輝き出すことも、進歩も退歩も時間の範疇にあり
それは根源の映像であるからあなたではない。時間で進化するものはあなたではない。
あなたは思考ではなく、心ではなく、記憶ではなく、魂でもなく、全宇宙そのものである。
あなたは夢の中の登場人物ではない、またその夢の中の自分を自分であると思っている自分ではない。
それらは記憶であり、記憶はあなたではなく、根源が使用しているものである。
それらの私とは根源が心という精妙なる物質を使って投影しているのである。
誕生して肉体を得た私はあなたではない。誕生日を祝福される私とはあなたではない。
肉体に入って、肉体を私だと思い、行為を私が為しているのだと思っている私とは「私という観念と
その観念の記憶」に過ぎない。記憶はあなたではない。
あなたはすべての私の私である。
夢の中の私、夢の中で恐れ楽しみ、欲し、嫌悪し、苦しみ、行為している私とは、あなたではない
それは、神経を伝わって知覚される物質であり、その物質の記憶である私の反応である。
思考である物質に反応しているその私とは記憶の反応であり、あなたではない。
朝、夢の中での出来事を覚えていて、汗をかいたり、喜んだり、大金持ちになったり、一文無しになったり、
事故にあったり、恋愛したり、失敗したり、成功したり、病気になったり、天才になったりしている、誕生したり、
この世を去ったりしているのは、記憶であり、それはあなたではない。この記憶の私を根源が使用して
芸術作品は展開している。
夢の中での私
そして
夢から目が醒めたと思っているさらなる夢(覚醒時)の中での私
そしてさらに、それらは夢だったのか・・・とほっとしている私とはあなたではない。あなたは質料ではなく
意識だ。意識は制約できず、時間と空間に制縛できない。それは自由で新たなるものであるからだ。
あなたは夢の中の私ではなく、その夢を覚えている私でもない
夢を夢だと思っているあなたは自我であって、
その自我とは根源が使っている心である私だ、その私が「自分が行為している」と思い込んでいる
自分であるから、それはあなたではない。
あなたはそれらの分離している私を所有していない意識である。