ヴィヴェーカナンダの言葉
(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「大宇宙」より一部転載させてもらいました)
15大宇宙
われわれの周囲一面にさく花々は美しい、朝日のの
ぼるのは美しい、変化にとむ自然界の色彩は実にみご
とです。全宇宙が美しく、人は地上にあらわれて以来、
それをたのしんできました。山々は崇高で、畏敬の念
をおこさせます。とうとうと海にむかってながれる大
河、道もない大砂漠、はてしない大洋、星々の輝く天
空、これらすべてが実に美しく、崇高で、畏敬の念を
おこさせます。われわれが自然と呼ぶ存在の全体が、
記憶をこえた太古の時代から人間の心にはたらきかけ
てきました。それは、人の思いにはたらきかけ、その
反応としてつぎのような問いがうまれました。これら
は何であるか。彼らはどこからきたのか。あのもっと
も古い人間の作品であるヴェーダの、もっとも古い部
分の時代にまでさかのぼっても、おなじ問いがだされ
ているのが見いだされます。「これはどこからきたの
か。有も無もなかったとき、やみがやみの中にかくさ
れていたとき、誰がこの宇宙をつくりだしたのか。ど
のようにして。誰がその秘密を知っているのか」 そし
てこの質問はわれわれの現代までつづけられてきまし
た。それにこたえようと幾百万のこころみがなされて
きました。それでもなおまた幾百万回、答えはくりか
えされなければならないでしょう。それぞれの答えが
まちがいであったというわけではありません。この問
いに対するどの答えも、真理の一部をふくんでいまし
た。そしてこの真理は、ときとともに力をあつめて行
きます。私はみなさんに、現代の知識と矛盾しない、
私がインドの古代の哲学者たちからあつめた答えの
概略をおはなししましょう。
われわれは、このもっとも古い問いかけの中の、い
くつかの点はすでに解決されていたことを知ります。
第一は、「有もなければ無もない」 とき、この世界が
存在しなかったとき、があった、という点です。海あ
り大洋あり、河あり山々あり、町々があり村々があり、
そこに人類やけものたち、草木、鳥たちがすむわれわ
れの母なる地球、そして太陽や月や星々、この無限に
多様なつくられた世界の存在しなかったときがあっ
た、という点です。このことはたしかなのでしょうか。
どうしてこのような結論が出たのか、しらべてみま
しょう。人は彼の周囲に何をみますか。小さな植物を
とってみましょう。彼は土にたねをまきます。そして
やがて、それが芽を出し、少しずつのびて生長をかさ
ね、ついには巨大な樹木になるのを見ます。それから
それは、種子だけをのこしてかれます。それはその循
環をおわるのです−種子からうまれ、樹木になって、
ふたたび種子におわるのです。鳥をごらんなさい、ど
のようにそれがたまごから生まれ、一生をいき、それ
から未来の鳥である別のたまごをのこして死ぬかを。
けものもそうです、人もそうです。自然界の一切物は、
いわばある種の種子、ある種の萌芽、ある精妙な形か
らはじまって、次第に粗大になり、発展し、しばらく
その調子ですすんだ後、ふたたびその精妙な形にもど
り、しずんでしまいます。中に美しい太陽光線をあそ
ばせている雨のしずくは、大洋から水蒸気の形ですい
上げられてはるか空中にのぼり、あるところまで行く
とそこで水にかわって、ふたたび蒸気にかえられるべ
く、いまの形でおちてきたのです。われわれをかこむ
自然界のいっさいのものがそうです。われわれは、巨
大な山々が氷河や河川に影響されつつあることを知っ
ています。それらはゆるやかにしかし確実に、山々を
くだいて砂にかえつつあり、砂は海におしながされる
と海底にしずんでやがて岩のようにかたくなり、未来
にもう一度山々となるべく、つみあがるのです。ふた
たび、山々はつきくだかれ、こうしておなじコースが
つづくでしょう。砂から、これらの山々はもりあがり、
砂に、彼らはかえるのです。
もし、自然はいたるところ斉一であるというのがほ
んとうであるなら、もし、砂の一つぶがつくられるの
とおなじ方法で巨大な太陽たち星たちおよびこの宇宙
全体がつくられる、というのがほんとうであるなら、
またいままでのところ、誰もそれと矛盾する経験はし
ていないのですが、もし、この宇宙全体が原子とまっ
たくおなじ計画のもとにつくられている、ということ
がほんとうであるなら、もし、宇宙全体に同一の法則
がゆきわたっている、ということがほんとうであるな
ら、ヴェーダの中に言われているように、「一かたま
りの土を知れば、宇宙間のすべての土の性質を知る」
のです。
小さな草一本をとりあげてその生命を研究し
てごらんなさい、われわれは宇宙のあるがままを知る
ことができます。もし砂の一つぶを知るなら、全宇宙
の秘密を理解することができます。この推理過程をも
ろもろの現象に適用すると、われわれはまず第一に、
あらゆるものははじめとおわりにおいてほとんどおな
じである、ということを知ります。山は砂から生まれ
て砂にもどります。河は蒸気から生まれて蒸気にもど
ります。植物の生命は、植物の種子から生まれて種子
にもどります。人間の生命は、人間の卵子から生まれ
て人間の卵子にもどります。その星々と遊星たちをふ
くむこの宇宙は、星雲状態からうまれてきたのであっ
て、またそれにもどるにちがいありません。このこと
からわれわれは何を学びますか。あらわれたもの、す
なわちより粗大な状態は結果であって、より精妙な状
態が原因である、ということです。幾千年もまえに、
破壊とは原因にもどることである、ということが、す
べての哲学の偉大な父であるカビラによって証明さ
れました。もしここにあるこのテーブルがこわされる
なら、それはその原因に、つまりくみあわされてテー
ブルという形をつくっていた、いくつもの部分にもど
るでしょう。人はもし死ねば、彼に肉体をあたえてい
た要素にもどるでしょう。地球がもし死ねば、それを
形成していた要素にもどるでしょう。これが破壊とよ
ばれるもの、すなわち原因にかえるごとなのです。そ
れゆえ私たちは、結果は原因とおなじ ー ことなるも
のではない、ということを学びます。それは別の形を
とっているだけです。このコップは結果であり、それ
には原因がありました。この原因はこの形の中に存在
しています。一定量のガラスとよばれる原料と製造者
の手の力が、結合されてコップとよばれるこの形をつ
くった原因 − 動力因と質量因です。製造者の手の中
にあった力は、それがなければ材料はバラバラにおち
てしまうであろう凝集力として、コップの中に存在し
ています。そしてガラスという材料も、そこにありま
す。コップは単に、これら精妙な原因の、新しい形を
とってのあらわれであり、もしそれがこなごなにこわ
れれば、凝集力としてそこにあった力は、はなれてそ
れとおなじ要素に合一するでしょう。そしてこなごな
になったガラスは、新しい形をとるまでそのままでい
るでしょう。
このようにしてわれわれは、結果は決して、原因と
はことならない、ということを知ります。この結果
は、原因がもっと粗大な形で再生されたものであるに
はかならないのです。つぎに、われわれが草木とか、
けものとか人間とかよんでいるこれらすべての特定
の形は、永久に生滅をくりかえす、ということを知り
ます。種子は樹木を生みます。樹木は種子を生み、そ
の種子はまた、別の樹木としてあらわれる、というよ
うにつづき、おわりはありません。水滴は山々をころ
がりおちて海にはいり、ふたたび水蒸気としてのぼる
と、また山にもどってやがて海にはいります。のぼり、
またおち、このようにして周期はくりかえされるので
す。すべての生きものがこれとおなじ、われわれが見
たり感じたり、きいたり想像したりすることのできる
すべての存在が、これとおなじです。われわれの知識
の限界内にあるいっさいのものは、人体の呼吸のよう
に、これとおなじ形で進行しているのです。つくられ
たいっさいのものはこの形ですすんでいますー波
がもりあがればつぎの波はおちこみ、またもりあがれ
ばまたおちこむ、というように。一つ一つの波がしら
がそれのくぼみをしたがえ、一つ一つのくぼみがそれ
の波がしらをしたがえています。斉一というおきてが
あるのですから、一つの全体としての宇宙にも、おな
じ法則があてはまらなければなりません。この宇宙は、
それの根源に還元しなければなりません。太陽、月、
星々および地球、肉体と心、およびこの宇宙間のいっ
さいのものは、もっと精妙な彼らの根源にかえらなけ
ればならない、消えなければならない、いわば、破壊
されなければならないのです。しかし彼らは、精妙な
形で原因の中に生きるでしょう。これらの精妙な形の
中から、彼らはふたたび、新しい地球たち、太陽たち、
日たち、および星々としてあらわれ出るでしょう。
この生滅起伏に関してもう一つ、学ぶべきことがあ
ります。種子は樹木から生まれます。それはただちに
樹木になるわけではなく、そこに無活動の一時期が、
と言うよりむしろ、非常に精妙な、外部にはあらわれ
ない活動の、一時期があります。種子はしばらくの間、
土の下ではたらかなければならないのです。それはこ
なごなにくだけ、まるでおとろえたようになります。
そしてそのおとろえの中から、再生がはじまるのです。
全宇宙も最初は一時期、そのようにはたらかなければ
なりません。カオス(混沌)とよばれる、目に見えな
い、形にあらわれない、そのこなごなの状態です。そ
してその中から、新しい形が放映されるのです。この
宇宙の一回のあらわれの全期間−−それがより精妙な
状態におちてゆき、しばらくその状態をたもったのち
にふたたび形をあらわす−は、サンスクリットでは
カルパ、すなわち周期とよばれています。つぎに、非
常に重要な、特に現代には非常に重要な質問が出てき
ます。われわれは、より精妙な形がゆっくりゆっくり
発展し、徐々により粗大に、もっと粗大になって行く、
ということを見ます。原因は結果とおなじ、結果は単
に形をかえた原因である、ということを見ました。で
すから、この全宇宙は無から生まれることはできない
のです。何ひとつ、原因なしには生まれません。そし
て原因は、別の形をした結果なのです。
では、この宇宙は何から生みだされたのでしょう
か。その前にあった、精妙な宇宙からです。何から人
は生まれたのでしょうか。その前にあった精妙な形か
らです。何から、木は生じたのでしょうか。種子から
です。その木の全体が種子の中にあったのです。それ
が出てきて、形にあらわれるのです。そのように、こ
の宇宙の全体は、まさに、この微細なすがたで存在す
る宇宙からつくられました。それはいまは形にあらわ
れています。それはあの微細なすがたにもどるでしょ
う。そしてふたたび、形にあらわされるでしょう。い
ま、われわれは、精妙な形がゆっくりとあらわれて粗
大に、もっと粗大になり、ついに彼らの限界に達する、
その限界に達すると彼らは後退し、さらに後退し、ふ
たたび精妙に、もっと精妙になる、ということを見ま
す。
この、精妙なるものから出てきていわば単にそれ
の部分の配列をかえるだけで粗大になって行く、とい
う事実が、近代において進化とよばれているものです。
これはまことにほんとうです。完全に真実です。われ
われはそれを、自分たちの生活の中で見ています。理
性を持つ人は決して、進化論者とあらそうことはで
きません。しかしわれわれは、もう一つのことを学ば
なければなりません。さらに一歩、すすまなければな
りません。それは何でしょうか。あらゆる進化のまえ
には退化がある、ということです。種子は樹木の父で
す。しかしもう一本の樹木がその種子の父だったので
した。種子は、その中から大きな樹木が生まれてくる
ところの精妙なすがたであり、もう一本の大きな樹木
は、その種子の中にふくまれている形でした。この宇
宙の全体は、無辺の精妙な宇宙の中に存在していまし
た。のちに人となる小さな細胞は、要するに内合され
た人であったので、人として展開するのです。このこ
とがはっきりすれば、われわれは進化論者とあらそい
はしません。なぜなら、もし彼らがこの段階をみとめ
るなら、彼らは宗教を破壊はせず、それのもっとも強
力な支持者となるであろうと思うからです。
われわれはそのとき、何ひとつ無からつくられるも
のはない、ということを見ます。いっさいのものは永
遠に存在しており、永遠に存在するでありましょう。
ただうごきが、精妙な形にもどり、また粗大なあらわ
れとして出てくるという、波の起伏の連続なのです。
この内合と展開は、自然界のいたるところにはたらい
ているものです。生命の最低のあらわれにはじまって
最高のもの、すなわちもっとも完全な人に到達する進
化すなわち展開の全系列は、別の何かの退化すなわ
ち内合だったのです。問いは − 何の内合か。何がう
ちにまきこまれていたのか。神です。進化論者は言う
でしょう。「それは神であったというおまえの考えは
まちがっている」 と。なぜですか。「なぜなら、おま
えは神は聡明であるというが、知能は進化の過程の中
でずっとのちになってからあらわれるものだ。われわ
れが知力を見いだすのは、人と比較的高級な動物たち
の中であって、この知能があらわれるまでにはこの世
界で幾百万の年月がたっている」と、われわれの理論を適
用すればわかりますが、進化論者たちのこの反論は理
屈にあっていません。樹木は種子から生まれて種子に
かえる。はじめとおわりほおなじです。地球はその原
因から生まれてそれにかえります。われわれは、もし
はじめを見いだすことができれば、おわりを見いだす
ことができる、ということを知っています。逆もまた
おなじ、もしおわりを見いだせば、はじめを見いだす
ことができます。もしそうなら、一端の原形質から他
のはしの完全な人間にいたる、進化の全系列をとり上
げましょうーーこの全系列が一つの生命です。おわり
に、われわれは完全な人間を見ます。ですからそれは、
はじめにもおなじだったにちがいありません。それゆ
え、原形質は、最高の知性を「内にふくんで」 いたの
です。みなさんはそれをごらんにならないかも知れな
い。しかしその内にふくまれた ー 内にまきこまれて
いるinvolvef − 知性は、みずから巻きをほどいて
やがてもっとも完全な人としてあらわれるはずのもの
なのです。このことは、数学的に証明することができ
ます。もしエネルギー不滅の法則が真理なら、あなた
は機械にまずそれを注入しなければ、何ひとつ機械か
ら得ることはできません。一つのエンジンから得るは
たらきの量は、あなたが水と石炭という形でそれにあ
たえたものとまったくおなじ、それより多くもなけれ
ば少なくもありません。私がいまはたらいている働き
はまさに、私が空気、食物その他の形で自分の中にと
りいれたものです。それは単に、変化と表現の問題で
す。この宇宙の経済においては、物質の一分子も力の
一フートポンドも加えることはできないし、物質の一
分子も力の一フートポンドもとりさることはできない
のです。もしそうなら、この知性とは何ですか。もし
それが原形質に存在していなかったのなら、無から生
じたものとして、突然やってきたことになる、これは
不合理です。それゆえ、あの完全な人、自由な人、神
の人、自然のおきてをこえ、いっさいのものを超越し
た人、もはや生死をくりかえしてこの進化の過程を通
過することを必要としない人、クリスチャンからは「キ
リスト人」とよばれ、仏教者からは「仏陀人」と、ヨ
ギたちからは「自由な人」とよばれるあの人〜進化
のくさりの一方のはしにいるあの完全な人は、お
なじくさりのもう一方のはしである原形質の細胞の中
にふくまれていた、ということは理の当然です。
おなじ論理を宇宙全体にあてはめた結果、われわれ
は知性が創造主すなわち原因でなければならない、と
いうことを知ります。人がこの宇宙に関して持ってい
る、もっとも進化した観念は何ですか。それは知性で
す。部分を部分にあわせるはたらき、知性の表明、古
代の宇宙計画説は、それを表現する一つのこころみ
だったのです。ですから、はじまりは、知性でした。
最初はその知性は内含involvedされています。そし
て最後にはその知性が展開evolvedされるのです。そ
れゆえ、宇宙にあらわされている知性の総計が、みず
からを展開しつつある、内合された宇宙の知性である
にちがいありません。この宇宙の知性が、われわれが
神と呼ぶところのものです。それを他のどのような名
で呼ぶにせよ、最初にその無限の宇宙知性が存在する、
ということは絶対に確実です。この宇宙知性が内合さ
れ、そしてそれはみずからを展開して表にあらわれ、
ついに完全な人、「キリスト人」、「仏陀人」となるの
です。それから、それはみずからのみなもとに帰って
行きます。それだから、すべての聖典が「彼の中に我
らは生き、うごき、そして存在する」と言っているの
です。それだから、すべての聖典が、われわれは神か
らくる、そして神にかえる、と言っているのです。神
学の言葉におどろいてはいけません。もしそれをきい
ておどろくようなら、みなさんは哲学者にはなれませ
ん。この宇宙知性こそが、神学者たちが神とよんでい
るものなのです。
私はたびたび、「なぜきみは、神などという古い言
葉をつかうのか」とたずねられました。なぜなら、こ
れがわれわれの目的にもっともよくかなう言葉だから
です。これよりよい言葉を見いだすことはできませ
ん。人間のすべての希望、あこがれおよび幸福はこの
言葉に集中しているのですから。いまはもう、この言
葉をかえることは不可能です。このような言葉は、最
初、それらの重要性を知り意味を理解する偉大な聖者
たちによって、つくられました。ところがそれらが社
会にひろまるにつれて、無知な人びとがそれらをとり
あげます。そしてその結果は、はじめの精神と栄光が
うしなわれてしまうのです。神という言葉は有史前か
らつかわれており、この宇宙知性の観念および偉大で
神聖な観念のすべてが、それにつながっています。み
なさんは、どこかの馬鹿者がそれはよろしくないと言
うから、これはすてなければいけない、とおっしゃる
のですか。別の男が出てきて、「私の言葉をとりあげ
ろ」と言う、するとまた別の男が出てきて、「私の言
葉を」と言うでしょう。こうして、おろかな言葉はき
りもなく出てくるでしょう。古い言葉をおつかいなさ
い。ただそれを、まことの精神をこめておつかいなさ
い。迷信をあらいおとし、この偉大な古代の言葉の意
味するところを、十分に理解なさい。もし観念連合の
法則を理解しておられるなら、みなさんは、これらの
言葉が無数の荘厳な、そして力にみちた観念につな
がっていることをお知りになるでしょう。それらは幾
百万の魂によってもちいられ礼拝され、彼らによって、
人間の性質の中のすべての最高かつ最善のもの、すべ
ての合理的なもの、すべての愛すべきもの、およびす
べてのりっぱなものとむすびつけられています。そし
てこれらの連想をおこさせるものとしてあらわれてお
り、決してすてるわけには行かないのです。もし私が
みなさんにただ、神が宇宙を創造しました、と申しあ
げただけでこれらすべてを表現しようとこころみたと
しても、みなさんにはなんの意味もつたわらなかった
でしょう。
しかしわれわれはこのすべての努力のあと
で、彼、古代の至高の一者にもどってきたのです。
いまやわれわれは、物質、思い、力、知性、および
その他というような宇宙エネルギーのさまざまの形の
すべては、あの宇宙知性、すなわち以後われわれが至
高の主とよぼうとしているもののあらわれにはかなら
ないのだ、ということを知りました。
みなさんが見、
感じ、またはきくいっさいのもの、全宇宙は彼の創造
です。もうすこし正確に言うなら、彼から放射された
ものです。さらにもっと正確に言うなら、主ご自身で
す。太陽として、星々として、輝いているのは彼です、
彼は母なる地球です。彼は大海そのものです。彼はや
さしい慈雨としてふってきます。彼はわれわれがすい
こむやわらかい空気です。そして、身体の内部で力と
してはたらいているのは彼です。彼ははなされる言葉、
彼ははなしている人です。彼はここにおられる聴衆で
す。彼は、私が立っている演壇です。彼は、みなさん
の顔を私に見せてくれる光です。すべてが彼です。彼
自身がこの宇宙の質量因であるとともに動力因であっ
て、極小の細胞の中にはいっており、進化してついに
ふたたび神となるのは彼なのです。おりてきて最低の
原子となり、徐々に彼の性質を展開しつつ、彼自身に
復帰するのは、彼なのです。これが宇宙の神秘です。
「あなたは男です、あなたは女です、あなたは、わかさを
ほこりつつあるいているつよい男です。あなたは、つ
えにすがってよろめいている老人です。あなたはあら
ゆるもののなかにいらっしゃる、あなたはあらゆるも
のでいらっしゃいます。おお主よ」 これが、人の知性
を満足させる唯一の宇宙の解釈です。ひとくちで言え
ば、われわれは彼から生まれ、彼のなかに生き、そし
て彼のなかにかえって行くのです。