ヴィヴェーカナンダの言葉
(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「絶対者と現象」より一部転載させてもらいました)
13絶対者と現象
(a)絶対者 |
(C)時間・空間・因果律 |
(b)宇宙 |
アドワイタ (非二元) 哲学を理解する場合に、会得
することがもっともむずかしい一つの問題、くりかえ
しくりかえし問いかけられるであろうが、それでもつ
ねにのこる一つの疑問、それは、どのようにして無限
なるもの、すなわち絶対者が有限なるものになったの
か、という問題です。今日はこの問題をとりあげましょ
う。そして一つの図面をもちいて説明しようと思いま
す。
心の世界も霊の世界も、 ここに絶対者(a) があり
ます。そしてこれが宇宙 (b) です。絶対者が宇宙
になったのです。
宇宙というのはこの物質の世界だけのことではな
つまりもろもろの天ともろもろの地、実は存在する
ものいっさいのことを言うのです。
心は、一つの変化の名前です。そして、肉体
は、もう一つの変化の名前です。以下同様であって、
これらの変化のすべてがわれわれの宇宙を形成してい
るのです。この絶対者(a) は、時間、空間および因
果律、すなわち(C)を通過することによって宇宙(b)
となりました。これがアドワイタの中心概念です。時
間、空間および因果律は、それをとおして絶対者が見
えるようになっているガラスのようなものです。そし
て、絶対者のよりひくい側面が見られたときに、それ
は宇宙としてあらわれるのです。さて、われわれはこ
のことからただちに、絶対者の中には時間も空間も因
果律もない、ということを推理します。心もなく思い
もないのを見れば、そこに時の観念があろうはずはあ
りません。外面的な変化がないのを見れば、そこに空
間の観念があろうはずはありません。ひとつしかない
ところに、みなさんが活動とか原因とか呼ぶものが存
在するはずはありません。われわれはつぎのことを理
解し、そして心にきざんでおく必要があります。すな
わち、われわれが因果律とよんでいるところのものは、
もしこういう言い方がゆるされるなら、絶対者が現象
界にまで退化したのちにはじまるものであって、その
まえにはじまるものではありません。われわれの意志、
願望、およびこのたぐいのものすべては、つねにその
あとにくるのです。私は、ショーペンハウエルの哲学
は、ヴェーダーンタ哲学の解釈において一つのまちが
いをおかしていると思います。それは意志をすべてに
しようとしているのです。ショーペンハウエルは、意
志を絶対者の位置に立たせています。しかし、絶対者
は、意志ではあり得ません。意志は変化する、現象的
なものであるのに、時間、空間および因果律の上方に
ひかれた線をこえたところには変化もなければ活動も
ないのですから。外的な活動や、思考とよばれる内的
な活動がはじまるのは、この縁の下の方にかぎられて
います。上の方には意志はあり得ません。したがって、
意志はこの宇宙の原因ではあり得ません。
もっと近いところにやってきて、われわれは自分の
肉体の中にも、意志がいっさいの活動の原因ではない、
という事実をみとめます。私はこの椅子をうごかしま
す。私の意志がこの運動の原因です。そしてこの意志
が、他のはしで筋肉の運動としておもてにあらわれる
のです。しかし、椅子をうごかすのと同一の力が、心
臓や肺やその他のものをうごかしていますが、それら
は意志が原因ではありません。力は同一であるとして
も、それが意識の段階にのぼるときにはじめて意志と
なるのであって、その前に意志と呼ぶのはまちがいで
す。これが、ショーペンハウエルの哲学に多くの混乱
をもたらしているのです。
石が落下し、われわれはなぜか、とといます。この
問いは、原因なしにおこるものはない、という仮定の
上にのみ可能なものです。このことを心にはっきりと
させておかれるよう、おねがいいたします。われわれ
が、これこれのことはなぜおこるのか、とたずねる場
合にはつねに、いっさいのできごとはかならず理由を
持っている、すなわち、原因としてはたらいた他の何
ものかによって先行されている、ということを暗黙の
ぅちに承認しているのです。この先行と後続が、われ
われが因果の法則とよんでいるものです。それは、宇
宙問の一切物はかわるがわる原因であり、また結果で
ある、ということを意味しています。それはそののち
にくるあるものの原因であり、みずからはそれに先行
した他の何ものかの結果であるのです。これは因果律
とよばれ、われわれのすべての思考の必要条件です。
われわれは、それが何であれ、宇宙間に存在する一つ
一つの微粒子は他のすべての微粒子と関係をもってい
る、と信じています。どのようにしてこの観念が生ま
れたのか、ということについては古来多くの議論があ
りました。ヨーロッパではそれは人類にとって体質的
なものである、と信じる直観的な哲学者たちがありま
した。またある学者たちは、それは経験からくる、と
信じました。しかしこの問題はまだ解決されていませ
ん。ヴェーダーンタはそれについてなんと言うか、後
ほどあきらかになるでしょう。しかしまず第一に、「な
ぜか」 ときくこと自体が、自分の周囲のいっさいのも
のはあるものによって先行され、他のあるものがその
あとにつづくことになっている、ということを予想し
ている証拠なのだ、ということを理解しておかなけれ
ばなりません。この質問の中にふくまれているもう一
つの信念は、この宇宙間には一つとして独立したもの
はない、いっさいのものは自分以外の何ものかの影響
をうける、というものです。相互依存は全宇宙の法則
です。何が絶対者の原因か、などとたずねるのはなん
というまちがいでしょう! このような質問をするた
めには、絶対者もやはり何ものかによってしぼられて
いる、それは何ものかに依存している、と想像しなけ
ればならないし、そう想像することによってわれわれ
は、絶対者を宇宙のレベルにまで引きおろすことにな
ります。絶対者の中には時間も空間も原因結果もない
のです。それはまったくひとつです。それ自身のみに
よって存在するものは、いかなる原因も持つはずはあ
りません。自由なものは、いかなる原因も持つはずは
ありません。持っていたら自由ではなく、しぼられて
いることになるでしょう。相対性を持っているものは
自由ではあり得ません。こうしてわれわれは、なぜ無
限者が有限なものになったのか、ときくこと自体が不
可能なことだ、ということを知ります。それは白己矛
盾なのです。
精妙な分野から通常世界の論理、つまり常識におり
てきても、われわれは、どのようにして絶対者が相対
者になったかを知ろうなどとつとめると、この矛盾を
別の角度から知らされます。もしわれわれがその答え
を得たとしたら、そのときにも絶対者は絶対者のまま
でいるでしょうか。それは相対者になっているでしょ
う。われわれの常識観念での知識というのは何ですか。
それはわれわれの心によって限定されたあるもの、つ
まりわれわれが知っているあるものにすぎません。そ
れがわれわれの心を超越したときにはもう知識ではあ
りません。さて、もし絶対者が心によって限定される
なら、それはもはや絶対者ではありません。それは有
限なるものになったのです。心によって限定されたも
のはことごとく有限になります。ですから、絶対者を
知る、ということは、ここでもことばの上で矛盾なの
です。これが、この質問に誰もこたえることができな
かった理由です。もしこたえられたとしたら、もうそ
こには絶対者なるものはないのですから。知られた神
はもう神ではありません。彼は、われわれの中の一人
のように有限になったのです。神は知られることはあ
り得ません。彼はつねに不可知の一者です。
しかしアドワイタが説くところは、神は知り得る以
上のものだ、ということです。これは、学ばなければ
ならない偉大な事実です。みなさんは、不可知論者が
言うような意味で神を不可知であるとするような考え
をたずさえて、ここからおかえりになってはいけませ
ん。たとえば、ここに椅子があります。このことはわ
れわれに知られています。しかし、エーテルのむこう
には何があるかとか、そこに人間がすんでいるかどう
か、というようなことは多分知ることができません。
しかし神は、知ることができないが、右のような意味
で知ることができないのではありません。彼は、知ら
れるよりももっとたかい何ものかであるのです。これ
が、神は知られていないとか、知ることができないと
かいう場合の、真の意味です。この言い方は、ある問
題が知られていないとか、それを知ることができない
とかいうような場合にふくめられている意味につかわ
れているのではありません。神は知られる以上のもの
なのです。この椅子は知られています。しかし神はは
るかにそれ以上です。なぜならこの椅子そのものを、
彼の中で彼によって、われわれは知ることになってい
るのですから。彼は照覧者です。すべての知識の永遠
の照覧者です。われわれが知るものはことごとく、わ
れわれは彼の中で、彼によって、知らなければならな
いのです。彼はわれわれの自己の精髄です。彼はこの
エゴ、この私、の精髄であり、われわれはその私の中
で私によってでなければ何ひとつ知ることはできない
のです。ですからみなさんは、ブラフマンの中でブラ
フマンによって、あらゆるものを知らなければならな
いのです。椅子を知るためには、みなさんは、ブラフ
マンの中で、ブラフマンによってあらゆるものを知ら
なければならないのです。椅子を知るためにはみなさ
んは神の中で、神によってそれを知らなければなりま
せん。こういうわけで、神は椅子よりも無限にわれわ
れに近く、それでいて無限にもっと高いのです。知ら
れているのでもなく、知られていないのでもなく、し
かしそのどちらよりも無限に高い、あるものなのです。
彼はみなさんの自己です。「この宇宙に、誰が一秒で
も生きられよう、誰が一秒でも呼吸をするだろう、そ
の神聖な一者がそれをみたしているのでなかったら」
彼の中で、彼によって呼吸をするのですから、われわ
れは彼の中で彼によって存在するのです。彼がどこか
に立っていて私の血液を循環させているなどというわ
けではありません。要するに、彼はこれらすべてのも
のの精髄、私の魂の魂なのです。
万が一にもみなさんは、
自分は神を知っている、などと言うことはできま
せん。それは、彼をおとしめることでありましょう。
みなさんは自分白身のそとにでることはできないので
す。それゆえ、彼を知ることはできません。知識とい
うのは客体化です。たとえば、記憶の中でみなさんは、
さまざまのものをみなさん自身の外に投影し、それら
を客体化しているのです。すべての記憶、すなわち、
かつて見たすべてのものおよび知っているすべてのも
の、が私の心の中にあります。さまざまの画面、すな
わちこれらすべてのものの印象が、私の心の中にあり
ます。そして私がそれらについて考えよう、それらを
知ろう、とするとき、知識の最初の行為は、それらを
外界に投影することでありましょう。このことを神に
対しておこなうわけにはゆきません。彼はわれわれの
魂の精髄なのですから。われわれは彼を自分のそとに
出すわけには行かないのです。ここに、ヴェーダーン
タのもっとも深遠な聖句の一つがあります、「あなた
の魂の精髄である彼、彼が真理である、彼が自己であ
る、あなたはそれである、おお、シュヴェーターケー
トゥよ」 これは、「あなたは神である」 と言うのとま
さにおなじ意味です。みなさんは、他のどんなことば
によっても、彼を言いあらわすことはできません。あ
るいは父とよび、あるいは兄弟とよび最愛の友と呼ぶ、
ことばによるすべてのこころみは神を客体化しようと
するくわだてであって、実行不可能なものであります。
彼はいっさいのものの永遠の主体です。私はこの椅子
の主体です。私は椅子を見ます。そのように、神は私
の魂の永遠の主体なのです。みなさんの魂の精髄であ
り、いっさいのものの本体である神を、どうしてみな
さんが客体化することができましょう。こういうわけ
で、私はみなさんにむかってもう一度くりかえします。
神は知られるものでも知られないものでもない、その
いずれよりも無限に高いものです。
彼はわれわれと一体です。
一体であるものはわれわれの自分と同様に、
知ることもできなければ、知ることができないもので
もありません。みなさんはみなさんの自分を知ること
はできません。それを持ちだして、ながめる対象にす
ることはできません。なぜなら、みなさんがそれなの
であって、それから自分をきりはなすことはできない
からです。それは知ることのできないものでもありま
せん。なぜなら、自分自身よりもよく知られているも
のがありましょうか。それは実に、自分の知識の中心
なのです。これとまったくおなじ意味で、神は知るこ
とのできないものでもなければ、知られるものでもな
く、その両方よりも無限に高いものです。彼はわれわ
れの真の自己なのですから。
第一に、われわれはそこで、「絶対者は何から生ま
れたか」という質問はことばの上ですでに矛盾であ
る、ということを知ります。そして第二には、アドワ
イタにおける神の観念はこの唯一性であり、したがっ
てわれわれは神を客体化することはできないのであ
る、ということを見いだします。なぜなら、みずから
が知ると知らぬにかかわらず、われわれはつねに彼の
中で生き、彼の中でうごいているのですから。われわ
れがなすことはすべて、つねに彼によってなされてい
るのです。
さて問題は、時間、空間および因果律とは
何か、ということになります。アドワイタは、非二元
という意味です。二つはない、あるものはひとつなの
です。しかしわれわれはここに、絶対者は時間、空間
および因果律というベールを通してそれ自身を多者と
してあらわしている、という命題を見ています。それ
ゆえ、ここに絶対者とマーヤー(時間、空間および因
果律の総合計)との二者がある、というようにも思わ
れます。外から見たところ、二つある、という説はま
ことにもっともと思われます。これに対して非二元論
者たちは、それを二つと呼ぶことはできない、とこた
えます。二つを持つためには、決して他者に起因しな
い、完全に独立した二つの存在を持たなければなりま
せん。第一に、時間、空間および因果律を独立した存
在と言うことはできません。時間は完全に従属的な存
在です。それはわれわれの心のあらゆる変化とともに
かわります。ときどき、人は夢の中で数年間もくらし
たと思うことがあります。また数カ月が一秒としてす
ぎることもあります。ですから、時間は完全にわれわ
れの心の状態に依存しているものです。第二に、時の
観念はときどきまったく消滅することがあります。空
間にしてもそうです。われわれは空間とは何であるか、
を知ることはできません。しかしそれはそこにありま
す。定義は不可能、他のものからはなれては存在する
ことができないで。因果律にしてもおなじことです。
時間、空間および因果律の中に見いだされる一つの
独特の性質は、それらは他のものからはなれては存在
することができない、というものです。色とか限界と
か、周囲にあるものとの関係のまったくない空間、ま
さに抽象的な空間、というものを考えようとこころみ
てごらんなさい。できますまい。空間を考える場合に
は、二つの限界の間、または三つの物体の間にあるも
の、として考えるほかはないのです。それは、とにか
く存在するためには、何かの対象物とむすびつかなけ
ればなりません。時間にしても同様です。みなさんは
決して、抽象的な時間というものを考えることはでき
ません。一つはさきだち、他はあとにつづくところの
二つのできごとをとりあげ、この二つを継続という観
念でつながなければなりません。空間が周囲の物体に
っながらなければならないのと同様に、時間は二つの
できごとに従属しているのです。そして因果の観念は、
時間と空間からきりはなすことができません。独立の
存在を持たないということがそれらの特性なのです。
それらは、この椅子や壁が持っているほどの存在性す
ら持っていません。それらは決してつかむことができ
ない、すべてのものの周囲にあるかげのようなもので
す。それらは真の実在ではありません。しかし、それ
らを適していっさいのものがこの宇宙としてあらわれ
ているのを見れば、それらは非実在でもありません。
こういうわけでわれわれは、第一に、時間、空間およ
び因果律の結合は存在でもなければ非存在でもない、
ということを見ます。第二に、それはときどき消滅し
ます。例をもって説明すれば、海の上に波が立つでしょ
う。波はたしかに海とおなじものです。それでもわれ
われは、それは波であり、したがって海とはちがった
ものである、ということを知っています。何がちがう
のでしょうか。名と形です。すなわち、心の中の観念
とそして形です。さて、波の形を、海とはまったく別
のものとして思いうかべることができるものでしょう
か。できはしません。それはつねに、海の観念にむす
びついているものです。波がひけば、形はすぐに消滅
します。しかしそれでも、形は妄想だったのではあり
ません。波が立っていた間は形はそこにありました。
そしてみなさんはその形を見ないわけには行かなかっ
たのです。これがマーヤーであります。
それゆえ、この宇宙全体が、いわば一つの独特な形
なのです。絶対者があの海であって、みなさんや私、
太陽たちや星たち、およびその他のいっさいのものは、
その海に立つさまざまの波です。そして波同士の間の
ちがいは何でしょうか。形だけです。そしてその形は、
すべてまったく波に従属しているところの時間と空間
と因果律です。波がしずまるやいなや、それらは消滅
します。個体がこのマーヤーをすてさるやいなや、そ
れは彼のまえからは消滅し、彼は自由になるのです。
すべての奮闘努力は、つねにわれわれの道の障害物で
ある、時間、空間および因果律へのこのつよい執着か
ら脱するためであります。進化とは何でしょうか。二
つの要素、とは何でしょうか。みずからをあらわそう
とつとめつつある巨大な潜在力と、それをおさえつけ
ようとする環境、すなわちそれに自己表現をゆるすま
いとするその周囲です。そこで、これらの周囲とたた
かうために、その力はいくたびもいくたびも身体を更
新します。アメーバは、努力して別の身体を得、若干
の障害を克服します。それからまた別のからだを得、
同様のことをくりかえしてついに人間となります。さ
て、この考え方を論理的な結論にまですすめて行くな
ら、アメーバの中にあって人間にまで展開したその力
が、自然が提出するいっさいの障害を克服しつくして、
それをとりまく環境から完全に脱出するときがくるに
ちがいありません。形而上学に示されているこの思想
は、つぎのような形をとるでありましょう。あらゆる
活動には、一つは主体、もう一つは客体という二つの
構成要素があり、生命の唯一の目的は、主体を客体の
主とならせることです。たとえば、ある人が私にこご
とを言ったので私は不愉快です。私の努力は、環境を
克服するほど自分をつよくすること、すなわち彼がこ
ごとを言っても自分が不愉快に感じないようになるこ
とでよう。われわれはみなこのようにして、かとうと
努力しているのです。道徳とは何か。絶対者に同調さ
せることによって、主体をつよくすることです。それ
によって、有限なる自然はわれわれを支配することを
やめるでしょう。われわれがいっさいの環境を克服す
るときがかならずくる、というのが、、私たちの哲学の
論理的な結論です。なぜなら、自然は有限なのですか
ら。
ここにもう一つ、学ばなければならないことがあ
ります。自然は有限だ、ということがどうしてわかる
のでしょうか。形而上学を通してはじめて、これを知
ることができます。自然は、限定されているあの無限
者です。それだから有限なのです。それゆえ、われわ
れがいっさいの環境を克服するときはくるにちがいあ
りません。またどのようにして、われわれはそれらを
克服するのでしょうか。われわれはとても、客観的環
境のすべてを克服することはできません。そんなこと
はできません。小さな魚が、水中の敵からのがれたい
と思います。どのようにしてそれをしますか。つばさ
をはやして鳥になることによってです。魚は水をかえ
ることも空気をかえることもしませんでした。変化は
それ自身の中におこりました。変化はつねに主体にお
こります。進化の全過程を通じて、自然の克服は主体
内の変化によってなされる、ということをみなさんは
見いだされるでしょう。この事実を宗教と道徳にあて
はめてごらんなさい。悪の克服は、主格の内部の変化
によってのみ成就する、ということを見いだされるは
ずです。アドワイタの教理は、このように見ることに
よって、人間の主観的な面にくわわる力のすべてを得
ているのです。悪や不幸を云々するのはナンセンスで
す。それらは外部に実在するわけではないのですから。
もし私がすべてのいかりに対して免疫になっているな
ら、私は決していかりを感じません。もし私がすべて
の憎悪に対して耐力保証つきであるなら、私は決して
憎悪を感じないでしょう。
そういうわけでこれが、あの征服をなしとげる方法
です。主体によって、主体を完全にすることによって、
おこなわれるのです。私はあえて申しあげますが、物
質的道徳的両面において近代の研究に一致し、また多
少はそれよりすすんでさえいる唯一の宗教は、アドワ
イタでしょう。それがこんなにも現代の科学者たちに
うったえる理由は、ここにあると思います。彼らは、
昔の二元論は自分たちの要求をみたさない、としてこ
れに満足しないのです。人は単なる信仰だけでなく、
知的信仰も持たなければなりません。いまこの一九世
紀の後半に、自分が祖先からうけついだ宗教以外の宗
教はみなにせものである、というような考え方は、ま
だそこによわさがのこっていることを、示すものです。
こういう考えはすてられなければなりません。私は
このようなことがこの国だけに見られるケースだなど
と言っているのではありません。それらはあらゆる国
に見られるものです。私の国などはその最たるもので
す。このアドワイタは決して、民衆にはうけいれられ
ませんでした。はじめに、ある僧たちがこれを護持し
て、それを森の中に持って行きましたので、「森の哲
学」 とよばれるようになりました。主のお慈悲によっ
てブッダがあらわれ、それを大衆に説きました。それ
で国民全部が仏教徒になりました。それから長いこと
たって、無神論者と不可知論者たちがまた国民を破滅
させたとき、アドワイタがインドを唯物主義からすく
う唯一の道である、ということが発見されたのです。
このようにしてアドワイタは二度、インドを唯物主
義からすくいました。ブッダがあらわれる前に、唯物
主義がおそるべき程度にまでひろがっていました。ま
たそれはもっともおそろしい性質のもので、今日見ら
れるたぐいのものとはことなり、それよりはるかに性
質のわるいものでした。私はある意味では唯物論者
です。たったひとつしかない、と信じているのですか
ら。これはまさに、唯物論者たちが主張しているとこ
ろです。ただ、彼らはそれを物質とよび、私はそれを
神と呼ぶのです。唯物論者たちは、この物質から、す
べての希望や宗教をはじめとするいっさいのものは
生じたのだと言います。私は、これらすべてはブラフ
マンから生まれた、と言うのです。しかし、ブッダの
前にはびこっていた唯物論は、「たべて飲んでたのし
くくらせ、神も魂も天国もありはしない。宗教はわる
い説教師どものつくり話だ」 と説く、ごく粗野なたぐ
いの唯物論でした。それは生きているかぎりはたのし
く生きるようつとめるべきだ、食物を買うのに借金し
なければならなくてもたべよ、返済のことなど考える
な、という道徳を説きました。それが古い唯物論でし
た。そしてこのたぐいの哲学は実にひろく流行しまし
たので、いまでもそれは 「ポピュラー・フィロソフィ」
という名でよばれています。ブッダはヴェーダーンタ
をあかるみにだし、それを民衆にあたえ、そしてイン
ドをすくいました。彼の死後一千年たって、おなじよ
うな状態がふたたびインドに遍満しました。庶民大
衆、およびさまざまの種族が仏教に改宗していまし
た。当然のこと、ブッダの教えはときがたつにつれて
堕落して行きました。人びとの大部分は非常に無知
だったからです。仏教は、神も、宇宙の支配者もとき
ませんでした。そこでしだいに、大衆は彼らの神たち
や悪魔たちやお化けたちをふたたび持ち出し、インド
では仏教からたいへんなごった煮ができてしまいまし
た。ふたたび唯物論が前面にのりだし、上流階級の間
では放縦というすがたを、下層階級の間では迷信とい
う形をとってはびこりました。このときに、シャンカ
ラーチャーリヤが立って、もう一度ヴェーダーンタ哲
学に活をいれたのです。彼はそれを合理的な哲学とし
ました。ウパニシャッドの中では、その説くところは
しばしば非常にあいまいです。ブッダによってこの哲
学の道徳的な面が強調されたのですが、シャンカラー
チャーリヤによって知的な面が強化されました。彼は
解明し、論理的にとき、人びとの前におどろくべく首
尾一貫したアドワイタの体系を示したのです。
唯物主義は今日ヨーロッパで流行しています。みな
さんは現代懐疑論者たちのすくいを祈念なさるでしょ
うが、彼らは屈しません。彼らは道理を欲しているの
です。ヨーロッパのすくいは、合理的な宗教の上にか
かっています。そしてアドワイタ、すなわち非二元、
唯一性、超人格神の概念は、知的な人びとをひきつけ
ることのできる唯一の宗教です。それは、宗教がかげ
をひそめ無信仰がはびこるように見えるときに、かな
らずやってきます。それがヨーロッパとアメリカに根
をおろしたのも、そのためです。
この哲学に関してもう一つ、申し上げたいことがあ
ります。古代のウパニシャッドの中に、われわれは崇
高な詩を見いだします。それらの著者は、詩人たちだっ
たのです。プラトンは、インスピレーションは詩を通
して人びとのもとにやってくる、と言っていますが、
これらのリシたちすなわち真理を見た人びとは、これ
らの真理を詩を通して示すために、人間よりも高い境
地にあげられました。彼らは決して説法せず、哲学的
思索をせず、書くこともしませんでした。音楽が彼ら
のハートからあふれたのです。ブッダの中には、宗教
を実践的にしてそれを各人の家の戸口にまでとどけた
偉大な普遍的な心と、無限の忍耐とがありました。シャ
ンカラーチャーリヤの中には、やけつくような理性の
光をあらゆるものの上になげかけた巨大な知力があり
ます。われわれは今日、愛と慈悲にみちたおどろくべ
き無限のハート、ブッダのハートとむすびついた、知
性の輝く太陽を欲しています。この結合が、われわ
れに最高の哲学をあたえるでしょう。科学と宗教は、
会って手をにざるでしょう。詩と哲学とは友達になる
でしょう。これが将来の宗教であるべきです。もしわ
れわれがそれをやりとげるなら、これはあらゆる時代、
あらゆる民族にうけいれられる宗教だ、と確信してよ
いと思います。これが、近代科学もみとめるであろう
たった一つの道です。実は、そのことはすでに、ほと
んど成就しているのです。科学の教師が、すべてのも
のは一つの力のあらわれである、と主張するとき、み
なさんは、ウパニシャッドの中に説かれている神を思
いだしませんか。「一つの火が宇宙にはいってさまざ
まの形にあらわれるように、まさにそのように、あの
ひとつの魂は、あらゆる魂の中に、しかもその上にもっ
と無限に多くのものの中に、それみずからをあらわす」
みなさんは、科学がどちらの方向にすすみつつあるか、
見ませんか。ヒンドゥ民族は心の研究から、すなわち
形而上学や論理学からはじめました。ヨーロッパの民
族はそとの自然の研究から出発しました。そしていま
や、彼らもおなじ結果に到達しようとしています。わ
れわれは、心を研究しているとついにその一者、その
普遍者に到達することを知ります。いっさいのものの
内の魂、いっさいのものの精髄かつ実体、永遠に自由
である者、永遠に至福である者、永遠に実在する者で
す。物質科学によって、われわれはおなじ一者に到達
します。科学は今日、すべてのものは、存在するいっ
さいのものの総計であるところの、一つのエネルギー
のあらわれにすぎない、そして人間は、束縛ではなく、
自由をもとめている者だ、とわれわれにつげています。
なぜ人びとは道徳的でなければならないのか。道徳の
中を、自由への道は通じているからです。不道徳は束
縛にいたる道なのです。
アドワイタ体系のもう一つの特徴は、そもそもの出
発のとき以来、非破壊的である、ということです。「何
びとの信仰も、たとえ無知のゆえに低級な礼拝形式を
固執する人びとの信仰であっても、かきみだしてはい
けない」と説く大胆さ、これはもう一つの栄光です。
その意味は、かきみだすな、しかししだいに高くのぼ
れるようにあらゆる人をたすけよ、すべての人をふく
めて、というものです。この哲学は、総合計であるひ
とつの神をときます。もしみなさんが、誰にでも適用
できる普遍的な宗教をもとめていらっしゃるなら、そ
の宗教はただ部分だけからなりたっている宗教であっ
てはなりません。それはかならず全部の総計であって、
宗教的進歩のあらゆる段階をふくむものでなければな
りません。
この思想は、他のどの宗教体系のなかにもはっきり
とは見いだされません。それらはすべて、全体に到達
しようとしておなじようにもがいている部分です。も
ろもろの部分はただ、このことのために存在している
のです。ですからアドワイタは最初から、インドにあ
るさまざまの宗派に反対するようなことはしませんで
した。今日インドには二元論者がおり、その数ははる
かに他をぬいて最大です。二元論は当然、教育程度の
ひくい人の心によりつよくうったえるのですから。そ
れは非常に便利で自然な、宇宙の常識的な説明です。
しかしこれらの二元論者たちと、アドワイタは決して
あらそいません。一方は、神はこの宇宙のそと、天界
のどこかにいると考えます。そしてもう一方は、彼は
彼自身の魂なのであるから、もっとはなれているもの
として彼を呼ぶのは不敬であろう、と考えます。すこ
しでもはなれている、と考えるのはおそろしいことで
しょう。彼は近いものの中のもっとも近いものなので
す。一体ということば以外には、この近さを表現する
ことばはどこの国語にも見いだすことはできません。
二元論者がアドワイタの概念からショックをうけてこ
れは不敬だ、と思うのとおなじように、アドワイティ
ストは他のどんな思想にも満足はしないのです。同時
にアドワイティストは、これらの他の思想も存在しな
ければならない、と考えます。それゆえ、正しい道を
あゆんでいる二元論者とあらそうようなことはしませ
ん。二元論者はその立場からすれば、多者を見ないわ
けには行かないでしょう。それは彼の立場の体質的な
必然なのです。それはそれでさしつかえない、どのよ
うな説をとく人も、結局は自分とおなじゴールに達す
るのだ、ということをアドワイティストは知っていま
す。その点では、彼は二元論者とはまったくちがいま
す。二元論者はその見地からして、自分とことなるす
べての見解はあやまりである、と信じないわけには行
かないのです。世界中の二元論者たちは当然、ある人
びとに対しては機嫌がよいが、ある人びとに対しては
腹をたてるこの世の大権力者のような、神人同形同性
的な人格神を信じます。この神は気ままに、ある特定
の民族あるいは人種を寵愛し、彼らの上にめぐみの雨
をふらせます。当然のこととして二元論者たちは、神
はお気に入りの連中を持っている、と結論し、その一
人になりたいと思うのです。みなさんは、ほとんどあ
らゆる宗教の中に、「われらはわれらの神のお気に入
りである。われらのように信じることによってのみ、
あなたも彼の寵愛をうけることができるのだ」という
思想があるのを見いだされるでしょう。ある二元論者
たちは、実に狭量で、神の愛をうけるように運命づけ
られたわずかの人びとだけがすくわれる。あとの人び
とはどんなに努力してもうけいれられない、などと主
張します。この排他性をすこしも持っていない二元論
的宗教がもし一つでもあったなら、私はお目にかかり
たいと思います。
ですからその性質上、二元論的宗教
は相互にあらそいたたかうにきまっています。そして
実際に、彼らはそれをやりつづけてきました。またこ
れらの二元論者たちは、無教育な人びとの虚栄心に
うったえることによって大きな人気をあつめます。無
教育な人びとは、自分たちだけが特権をあたえられて
いる、と感じることをこのむのです。二元論者は、む
ちを手にして人を罰しようと身がまえている神を信じ
ないと、人は道徳的になれない、と考えます。ものを
考えない大衆はふつう二元論者です。そして彼らは気
の毒にも、どこの国ででも幾千年の間迫害されてきて
いるものですから、彼らにとっての救済とは、罰への
恐怖からの解放なのです。私はアメリカである牧師か
ら、「なんと! あなたの宗教には悪魔がいないので
すか。どうしてそんなことが」 ときかれました。しか
しわれわれは、この世界に生まれた中でもっとも善良
な、そしてもっとも偉大な人びとは、あの高い超人格
の観念をもってはたらいた、ということを知ります。
その力が幾百万の人びとをすくったのは、「私と私の
父とは一体である」と言ったあの人です。その力は幾
千年の間、善のためにはたらいてきました。そしてわ
れわれは、この人は非二元論者であったために他者に
対して慈悲深かったのだ、ということを知っています。
人格神より高いものを考えることのできなかった大衆
にむかっては、彼は、「天にましますあなたの父に祈れ」
と言いました。もっと高い思想を理解することのでき
る者たちには、「私はぶどうの木、あなたがたはその
枝である」と言いました。しかし、弟子たちにむかっ
てはもっと完全にみずからを啓示し、「私と私の父と
は一体である」という、最高の真理をのべたのです。
二元論的な神々をまったくもとめなかった人、そし
て無神論者だとか唯物論者だとかよばれてきた人、し
かしながら一匹のあわれな山羊のために自分のいのち
をすてることをいとわなかった人、それは偉大なブッ
ダでした。かの人は、あらゆる民族が持つ中の最高の
道徳的観念を発動させました。およそ道徳のおきてそ
のものが見られるところ、ことごとく、それはかの人
から発した光の一すじです。われわれは、特に、人間
の歴史の中でのこのような時期、百年前には夢想もで
きなかったほどの知的進歩が見られるとき、五〇年前
にさえ誰も想像しなかったほどの科学知識の波がたか
まっているときに、この世界の偉大なハートたちをせ
まい限界の中におしこめてそこにとじこめておくこと
はできません。人びとをせまいわくの中におしこめよ
うとするのは、彼らを動物に、そしてものを考えない
大衆に、堕落させることです。彼らの道徳的生命をこ
ろすことです。いま要求されているのは、最大のハー
トと最高の知性との結合です。無限の愛と無限の知識
との結合です。ヴェーダーンティストは神に対して、
つぎの三つ以外の属性はあたえません。すなわち、神
は無限の存在であり無限の知識であり、そして無限の
至福であるとし、そしてこれらの三つはひとつである、
と見るのです。知識と愛なしに存在はあり得ないし、
愛のない知識も知識のない愛もあり得ません。われわ
れが欲するのは、無限の存在、知識、および至福のハー
モニーです。それがわれわれの目標なのです。われわ
れは一方的な発達でなく、ハーモニーを欲しているの
です。そして、ブッダのハートとともにシャンカラの
知性を持つことは可能なのです。われわれはそろって、
このめぐまれたコンビネーションを成就するよう努力
したいものであります