ヴィヴェーカナンダの言葉
(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「小宇宙」より一部転載させてもらいました)
12小宇宙
一八九六年一月二六日、ニューヨークで
人間の心は、おのずからそとへと出たがります。感
覚器官というみちを通って、いわば肉体のそとを、よ
く見たいと思うのです。目は見なければ承知しません。
耳はきかなければすみません。感覚の諸器官は、外界
を知覚しなければならないのです − そして当然、ま
ず最初に、自然界のうつくしさと気高さが人の心をと
らえます。人の魂に生まれた最初の問いは、外界につ
いてでした。天空について、星々について、さまざま
の天体について、大地について、河について、山々に
ついて、海についての神秘の解明が、もとめられまし
た。そしてわれわれはすべての古代の宗教に、模索す
る人間の心が最初は外界の一切物にとらえられた、と
いう形跡を見いだします。そこには河の神あり、空の
神あり、雲の神あり、雨の神がありました。いずれも
外界の存在、すべてわれわれがいま自然力とよんでい
るものが、さまざまの意志に、神々に、天界の使者た
ちに形をかえられたのでした。この疑問がもっと深ま
るにつれて、これら外界のあらわれは人の心を満足さ
せることができなくなり、ついにエネルギーは内にむ
けられて、人みずからの魂が探求されることになりま
した。問いは、大宇宙から小宇宙にむけかえられたの
です。外界から、内界にむけかえられたのです。外界
の自然を分析することから、人は内界を分析するよう
にみちびかれるのです。この内なる人間の探求は、文
明のもっと高い状態とともに、自然へのもっと深い洞
察とともに、もっと高い成長段階とともにはじまりま
す。
今日の午後の話の主題は、この内なる人間です。内
なる人間の探求ほど、人間のハートにとって近しく親
しいものはありません。何百万回、どれほど多くの国々
で、この問題がたずねられたことでしょう! 賢者も
王たちも、富めるもまずしきも、聖者もつみびとも、
あらゆる男性、あらゆる女性がくりかえし、この問い
をといかけてきました。このはかない人生に、永続す
るものは一つもないのか。この肉体が死ぬときに、死
んでしまわないものはないのか、と彼らはたずねてき
ました。このからだがくだけてちりとなるときに、な
お生きている何ものかはないのか。肉体をやいて灰に
する火のあとに何かのこるものは、ないのか。もしあ
るなら、それはどうなるのか。それはどこに行くのか。
それはどこからきたのか。このような問いがくりか
えしたずねられました。そしてこの創造がつづくかぎ
り、そしてそこに考える人間の頭脳があるかぎり、こ
の問いはくりかえされなければならないでしょう。そ
れでも、答えがあたえられなかった、というわけでは
ありません。いつでも、答えはあたえられました。ま
たときがたつにつれて、その答えは層いっそう力をま
すことでしょう。この問いは、幾千年の昔にきっぱり
とこたえられたのでした。そしてそれ以来たえず、く
りかえしのべられ、くりかえし説明されて、われわれ
の知性に納得が行くようになっているのです。それゆ
えわれわれがしなければならないのは、その答えをも
う一度のべることです。われわれは、このすべての人
の心をうばう問題に、新しい光をなげかけるようなふ
りはしません。ただ、この古代の真理を、現代の言葉
でみなさんのまえにおくだけです。古代の人びとの思
想を現代人の言葉でかたるだけです。哲学者たちの思
想を大衆の言葉ではなすだけです。天使の言葉を人間
の言葉ではなすだけ、神の思いを、あわれな人類の言
葉で表現するだけです.。人がそれらを理解すること
ができるように。なぜなら、これらの観念を放射する
神的な本質とおなじものがつねに人の内部に存在して
おり、したがって彼はかならず、それを理解すること
ができるのですから。
私はみなさんを見ています。このように見るために
は、いくつのものが必要なのでしょうか。第一に目。
他のあらゆる部分が完全であっても、もし目がなけれ
ば見ることはできません。第二には、ほんとうの視覚
器官。なぜなら、目は器官ではありません。視覚の道
具であるにすぎません。それらの背後に、ほんとうの
器官、脳の中の神経中枢があるのです。もしその中枢
がきずつけられたとしたら、人はたとえこの上なく
はっきりとした目を持っていても、何ひとつ見ること
はできないでしょう。すべての感覚において、これと
同様です。そとにある耳は、音の振動を内なる中枢に
ったえる道具であるにすぎません。しかも、それで十
分ではありません。かりにあなたが書斎で熱心に本を
よんでいるとします。そこで時計がなります。それで
も、あなたはそれをきかないでしょう。音はしていま
す。空気は振動しています。耳の神経中枢もそこにあ
ります。そしてこの空気の振動は、耳によって中枢に
つたえられました。それでも、あなたはそれをきかな
いのです。何がたりないのですか。心がそこにないの
です。こうしてわれわれは、必要な第三のもの、心が
そこになければならない、ということを知ります。第
一にそとにある道具、それからこのそとの道具が感覚
をはこぶさきの器官、そして最後に、器官そのものは
心にむすびつかなければなりません。心が器官にむす
びつかなければ、器官と耳とが印象をうけとっても、
われわれはそれを意識しないでしょう。心もまた、は
こび手にすぎません。それは感覚をもっとさきへとは
こび、それを知力にわたさなければなりません。知力
は決定する能力であって、自分のところにとどけられ
たものを判定しなければなりません。それでも、これ
で十分なのではありません。知力は、それをさらには
こび、全部を肉体にやどる支配者、すなわち人間の魂、
玉座にすわる王さまの前に提出しなければならないの
です。彼の前にこれが提出されると、彼から、何をせ
よとか何をするなとかいう命令がきます。その命令は
おなじ順序を逆に知力へ、心へ、器官へとくだり、器
官がそれを道具につたえて、知覚は完了するのです。
道具は人のそとのからだ、粗大な体の中にあります。
しかし心と知力はそうではありません。それらは、ヒ
ンドゥの哲学では幽体 (より精妙な体) とよばれるも
の、みなさんがおよみになるキリスト教神学では、人
の霊体とよばれているものの中にあります。それは肉
体よりははるかに精妙なものですが、それでも魂では
ありません。この魂は、それらのすべてを超越してい
ます。外部の肉体は数年ではろびます。どんな簡単な
原因でも、それを害したり破壊したりすることはでき
るでしょう。精妙な体は、そうやすやすとはほろぼさ
れません。しかし、ときには退化し、ときにはつよく
なります。老人は心の力をうしない、肉体がたくまし
いと心もつよくなる、さまざまの薬物はそれに影響を
あたえる、どんなに外界のあらゆるものがそれに影響
をあたえ、またどんなにそれが外界に反応するか、わ
れわれは見ています。ちょうど肉体が進歩したり退歩
したりするように、心もそれをするのです。ですから、
心は魂ではありません。なぜなら魂はおとろえること
も退歩することもあり得ないのですから。どのように
して、われわれはそれを知ることができるのですか。
どのようにして、この心の背後に何ものかがある、と
いうことを知ることができるのですか。なぜならみず
からをてらす知識、知能の根底は、にぷい、死んだ物
質のものであるはずはないのですから。それみずから
の本性として知能をそなえている粗大な物質などは、
誰も見たことがありません。にぷい、または死んだ物
質がそれみずからをてらすことなどは、決してでき
ません。すべての物質をてらすのは、知能です。この
広間は、知能があってはじめてここに、あり得るので
す。なぜなら、三の広間として、ある知能がそれを
つくったのでなければそれの存在が知られることはな
いでしょう。この肉体は、みずから光り輝くものでは
ありません。もしそうであったとしたら、死人の場合
でも輝いたでしょう。心も霊体も、みずから光り輝く
ものではないのです。それらの本質は、知能ではない
のです。みずから光り輝くものは、おとろえることは
あり得ません。かりた光で輝いているものの光輝は、
来てそして行ってしまいます。しかし光それ自体であ
るもの、何がそれを、来たり行ったり、さかえたりお
とろえたりさせることができましょう。われわれは、
月がみちたりかけたりするのを見ます。月は太陽から
かりた光で輝いているからです。鉄のかたまりが火の
中にいれられて熱せられればそれは赤くなって輝きま
す。しかしその光はかりたものですからきえるでしょ
う。そのように、おとろえるのはその光が他からかり
たものである場合だけです。
いまやわれわれは、肉体すなわち外がわの形はそれ
の本質としては光を持っていない、みずから光り輝く
ものではない、したがってそれ自身を知ることはでき
ない、ということを知りました。心もそれと同様です。
なぜできないのか。なぜならそれは満ち欠けがあるか
ら。あるときにはつよく、またあるときにはよわくな
るから。どんなものからでも、影響をうけるから。で
すから、心を通して輝く光は、心自体のものではあり
ません。では誰のものか。それは、自分の本性として
それを持っており、したがって決しておとろえたり死
んだりせず、つよくもよわくもならないもの、に属す
るにちがいありません。それは、みずから光り輝いて
いるのです。それは、輝きそのものなのです。魂が知る、
などということはあり得ません。魂が、知識であるの
です。魂が存在する、ということはあり得ません。魂が、
存在であるのです。魂が幸福だ、ということはあり得
ません。魂が、幸福それ自体なのです。幸福なものは、
その幸福をかりてきたのです。知識を持つ者は、その
知識をうけとったのです。
そして、相対的に存在する
ものは、ただ反映された存在を持っているにすぎませ
ん。性質なるものがあるところかならず、それらの性
質は、実体の上に反映されたものであります。しかし
魂は、自分の性質として知識、存在、至福を持ってい
るのではなく、これらが、魂の本質なのであります。
また、このようにたずねられるでしょう ー なぜ、
これを自明のこととしてうけとるのか。なぜ、知識、
至福、存在は魂の本質であって他からのかりものでは
ない、ということを容認するのか。このような議論も
出るでしょう ー 魂の輝き、魂の至福、魂の知識は、
肉体の輝きが心からのかりものであるのとおなじよう
にほかからのかりものだ、と言ってもよいではないか。
このように論じることのあやまりは、そうすると際限
がない、ということです。これらは誰からかりられた
のか。もしここで他のあるみなもとからかりられた、
と言ったら、おなじ質問がまたくりかえされるでしょ
う。そうしてついには、みずから光り輝くもの、のと
ころにこなければなりますまい。それなら、ことを早
くすませるために、論理的な方法はと言えば、それ自
体の輝きに出あったところでとまり、それ以上さきに
はすすまないことです。
われわれはそれから、この人間とよばれるものは、
第一にこの外がわのおおいである肉体と、第二に心と
知力とエゴイズム (アバンカーラ、私意識)とからな
る精妙な体(幽体)とによって構成されている、とい
うことを見ます。それらの背後に、人の真の自己がい
るのです。われわれは、粗大な体(肉体)はすべての
性質と力とを心からかりており、そして心すなわち精
妙な体は、それの力と輝きを、背後に立つ魂からかり
ている、ということを見ました。
今度はこの魂の性質について、実にさまざまの質問
が生まれます。もし、魂の存在が、それはみずから光
をあらわしつつあります。そして肉体を通じて外なる
世界を把握し、理解しつつあります。そして肉体がお
とろえ使いつくされると、別の肉体をとってすすみつ
づけるのです。
ここで、非常に興味ぶかい問題がでてきます。一般
に魂の生まれかわりとよばれている、あの問題です。
しばしば、人びとはこの考えをきいてびっくりします。
またこの迷信は実にふかいので、考える人びとさえ自
分たちは無から生まれてきたのだと信じ、その上でな
お、この上もなくりっぱな論理によって、自分たちは
ゼロから生まれたのだけれどこれからは永遠に生きる
のだ、という学説をあみ出そうとつとめるのです。ゼ
ロから生まれたものは確実に、ゼロにもどらなければ
なりません。あなたも私も、ここにいる誰も彼も、ゼ
ロから生まれたのではありませんし、ゼロにかえるの
でもないのです。われわれは永遠に存在してきたので
すし、また存在するでありましょう。太陽の下にも太
陽の上にも、みなさんの、また私の存在をなくしてゼ
り輝く、知識、存在、至福がそれの本質である、とい
う論拠から引き出されるのであれば当然、それはつく
られたものではあり得ない、ということになります。
みずから光り輝く存在は、他のいかなる存在にも依存
してはおらず、何ものの所産でもあるはずはありませ
ん。それはつねに存在していました。それが存在しな
かったとき、などというものはありませんでした。な
ぜなら、もし魂が存在しなかったら、どこに時があり
得ますか。ときは魂の中にあります。ときがあらわれ
るのは、魂がその力を心に反映させて、心が思うとき、
なのです。魂がなかったときには確実に思いもなく、
思いがなければときもありませんでした。ですからど
うして、魂がときの中に存在するなどと言えましょう
ー ときそのものが魂の中に存在するのに。それは生
まれもしなければ死にもしません。ただ、これらすべ
ての、さまざまの段階を通過するのです。ゆっくりと、
すこしずつ、ひくい方から高い方へとあらわれて行き
ます。心を通して肉体に働きかけ、それ自身の偉大さ
をあらわしつつあります。そして肉体を通じて外なる
世界を把握し、理解しつつあります。そして肉体がお
とろえつかいつくされると、別の肉体をとってすすみつ
づけるのです。
ここで、非常に興味ぶかい問題がでてきます。一般
に魂の生まれかわりとよばれている、あの問題です。
しばしば、人びとはこの考えをきいてびっくりします。
またこの迷信は実にふかいので、考える人びとさえ自
分たちは無から生まれてきたのだと信じ、その上でな
お、この上もなくりっぱな論理によって、自分たちは
ゼロから生まれたのだけれどこれからは永遠に生きる
のだ、という学説をあみ出そうとつとめるのです。ゼ
ロから生まれたものは確実に、ゼロにもどらなければ
なりません。あなたも私も、ここにいる誰も彼も、ゼ
ロから生まれたのではありませんし、ゼロにかえるの
でもないのです。われわれは永遠に存在してきたので
すし、また存在するでありましょう。太陽の下にも太
陽の上にも、みなさんの、また私の存在をなくしてゼ
ロにおくりかえす力などは、ありません。この生まれ
かわりの思想は、人をおどかすようなものでないばか
りか、人類の道徳的福祉のために絶対に必要なもので
す。それは、深く考える人びとが到達し得る唯一の結
論です。もしみなさんがこれから永遠に存在するので
あるなら、みなさんは永遠の過去から存在してきた、
というのでなければなりません。これ以外にありよう
はないのです。私はこの説に対してよくあげられる反
論のいくつかに、こたえてみましょう。みなさんの多
くは、それらを実におろかな反論とお思いでしょうが
それでもわれわれは、それらにこたえなければなら
ないのです。しばしば、もっとも考えぶかい人びとが
臆面もなく、もっともおろかな意見を提出するのです
から。「哲学者たちが一人も支持してくれなかったほ
ど、不条理な思想はいまだかつてあらわれたことがな
い」とはよく言ったものです。第一の反論は、なぜわ
れわれは自分の過去をおぼえていないのか、というも
のです。われわれは今生における自分の過去を全部お
ぼえていますか。みなさんの中の何人が、自分が赤ん
坊だったときのことをおぼえておられますか。ごくお
さなかったときのことなどをおぼえている人はいらっ
しゃらないでしょう。すると、もしみなさんの存在が
記憶の有無によってきまるのなら、この議論はみなさ
んは赤ん坊としては存在しなかった、ということを立
証します。みなさんはそのときのことをおぼえておら
れないのでから。記憶がないのは存在しなかったから
だ、などと言うのは、まったくのナンセンスです。ど
うしてわれわれが過去生のことなどをおぼえていま
しょう。あの頭脳は、こなごなにこわれてなくなって
しまい、新しい頭脳がつくられたのです。この頭脳に
はいっているのは、この心が新しい肉体にやどるとき
に持ってきた、過去生の印象の結果、それらの総計な
のです。
ここにこうして立っている私は、私にくわえられて
きた無限の過去すべての、結果です。それにどうして、
すべての過去をおぼえていることが私にとって必要
なのですか。偉大な古代の賢者、じかに真理を見た予
言者が何かを言うと、このような現代人たちはたち上
がって、「おお、彼は愚者だった!」 と言います。し
かしちょっと、他の名前をだしてごらんなさい、「バッ
クスレーがそう言う、ティンダルも」すると、それは
ほんとうにちがいないというので、彼らは無条件にみ
とめるのです。古代の迷信のかわりに、彼らは現代の
迷信をたてました。昔の宗教の法王たちのかわりに、
科学という、現代の法王たちをまつりあげたのです。
こうしてわれわれは、記憶に関するこの反論は根拠が
ない、ということを知ります。しかもそれは、この説
に対してあげられている唯一のまじめな反論なので
す。過去生の記憶がなければならぬ、ということはこ
の学説にとって必要ではない、ということはよくわか
りましたが、
しかしそれと同時にわれわれは、この記
憶が確実によみがえる場合がある、と断言することも
できるのです。われわれの一人ひとりが、ついに解脱
を得べきその生涯においては、この記憶をとりもどす
でありましょう。そのときにはじめて、みなさんは、
この世は一場のゆめにすぎない、ということを見いだ
されるでしょう。そのときにはじめて、魂のおくのお
くで、この世は一つの舞台、自分たちは俳優にすぎな
いのだ、ということをお悟りになるでしょう。
そのと
きにはじめて、無執着の観念が万雷の迫力をもってみ
なさんにせまってくるでしょう。そのときこの快楽へ
の渇望、生命とこの世界へのこの執着は、永久に消滅
するでしょう。そのときに心は、これらすべてのもの
はみなさんにとっていくたび存在したか、何百万回、
みなさんは父と母を、息子たちと娘たちを、夫たちと
妻たちを、親頼たちと友人たちを、富と力を持ったか、
まひるの光のようにはっきりとごらんになるでしょ
う。彼らは来て、そして行きました。みなさんはいく
たび、最高の波がしらに立たれたことか、またいくた
び、絶望のどん底におちこまれたことか!記憶がこ
れらすべてをみなさんの前に示すとき、そのときには
じめて、世界が自分にむかって顔をしかめても、皆さ
んは英雄として立ち、微笑しているでしょう。そのと
きにはじめて、みなさんは立ちあがっておっしゃるで
しょう、「私はあなたにさえ頓着しないぞ、おお死の
神よ。あなたなど、なんのおそれることがあろう」と。
すべての人が、こうなるのです。
この魂の転生に対して何か論拠、何か合理的な証明
がありますか。いままでのところわれわれは、それを
あやまりとする反論は根拠のないものだということを
示す、消極的な側面を提出してきました。積極的な証
拠もあるのでしょうか。あるのです。しかももっとも
確実なものがあるのです。転生の学説以外には、われ
われが人と人との間に見いだす、知識獲得の能力の大
きなちがいを説明することのできるものはありませ
ん。
まず第一に、知識が獲得される過程を考えてみま
しょう。私が町に出て犬を見たとします。私はどのよ
うにして、それを犬であると知るのですか。私はそれ
を、自分の心に問いあわせます。すると私の心には、
私の過去のすべての経験が整理され、いわばたなの小
仕切りの中に分類整頓されてたくわえられています。
新しい印象がくるやいなや、私はそれをとりあげて中
仕切りの一つにつきあわせ、すでに存在しているおな
じ印象のグループを発見するとその中に入れて、満足
するのです。私はそれを犬であると知ります。なぜな
らそれがすでにそこにある印象と一致するからです。
この新しい印象と同種のものが内に見いだされない場
合には、私は不満を感じます。ある印象の同類を見い
だせないで不満を感じるとき、心のこの状態は 「無知」
とよばれます。しかし印象の同類がすでに存在するの
を見いだして満足した状態は 「知識」 とよばれます。
一つのリンゴがおちたとき、人びとは不満を感じまし
た。それからしだいに、彼らはグループを見いだしま
した。彼らが見いだしたグループは何でしたか。すべ
てのリンゴはおちる、というものでした。そこで彼ら
はそれを、「引力」 と名づけました。いまやわれわれ
は、すでに存在する経験のたくわえがなければ、新し
い経験は不可能である、なぜなら新しい印象について
問あわせるべき対象がないから、ということを知りま
す。ですから、もし、ヨーロッパの哲学者たちのある
人びとが考えるように、子供が彼らのいわゆる白紙状
態でこの世に生まれてきたものであるなら、そんな子
供はどんな程度の知的能力も、身につけることはでき
ないでしょう。自分の新しい経験を照合すべき対象を
持たないのですから。われわれは、知識を獲得する力
は人によってことなるのを見ます。これは、われわれ
の一人ひとりが各自の知識のたくわえを持って生まれ
てきていることを示します。知識は、たった一つの方
法で獲得することができるものです。経験という方法
です。他に知る方法はありません。もしわれわれがそ
れを今生で経験したのでないとしたら、他の生涯で経
験したのにちがいありません。死の恐怖がいたるとこ
ろに見られるのはどういうわけですか。小さなヒヨコ
が卵から出たばかり、そこにワシがとんできます。す
るとヒヨコはおそれて母島のもとにとんで行くでしょ
う。そこには古い説明があります (いかめしく説明な
どと言えるものではありませんが)。それは本能とよ
ばれているのです。何があのたまごからかえったばか
りのヒヨコに死をおそれさせるのですか。めんどりに
だかれてかえされたばかりのアヒルの子が、水辺にく
るやいなやとびこんでおよぎだすのはどういうわけで
すか。それはまだおよいだこともなければ、何かがお
よいでいるのを見たこともないのです。人びとはそれ
を、本能とよびます。それはりっぱな言葉ですが、わ
れわれに何もおしえてくれるわけではありません。こ
こで、この本能という現象を研究してみましょう。子
供がピアノをひきはじめます。はじめは鍵盤の一ふれ
ごとに注意を集中しなければならないのですが、何カ
月、何年と練習をつづけるうちに、演奏はほとんど自
動的に、本能的になります。はじめは意志の力をはた
らかせておこなわれたものが、のちには意志の努力を
必要としなくなるのです。これはまだ、完全な証明で
はありません。半分がのこっています。そしてその半
分は、いま本能的である活動のすべては、音蓋の制御
のもとにおくことができる、ということです。身体の
おのおのの筋肉は、制御され得るものなのです。これ
は十分によく知られていることです。これで、この二
重の方法によって、いまわれわれが本能とよんでいる
ものは意志的な活動の退化したものだ、ということの
証明は完全にな。ます。それゆえ、もしこの類推が被
造物の全部にあてはめられるなら、もし全自然界が斉
一であるなら、もっとひくい動物において、また人間
の場合にも、本能とよばれているものは意志の退化し
たものであるにちがいありません。
退化(内含)はことごとく進化を前掛とし、進化は
ことごとく退化(内含)を予想するという、大宇宙の
ところでくわしく論じた法則によって、われわれは、
本能は、内合された理性である、ということを知りま
す。ですからわれわれが人または動物の中で本能と呼
ぶものは内合された、退化した意識的活動であるにち
がいありません。しかも、意識的な活動は経験なしに
は不可能です。経験が、その知識を生じさせ、その知
識がそこにあるのです。死の恐怖、水にとびこむアヒ
ルの子、および本能的となった人間のすべての無意識
の活動は、過去の経験の結果です。ここまでは、はっ
きりと論議をすすめてきました。またここまでは、最
新の科学もわれわれに同意しています。しかしここで
もう一つの困難があらわれます。もっとも新しい科学
的な人びとは、古代の賢者たちのほうにもどってきて
います。その点では、われわれと完全に一致していま
す。彼らは、人はすべて、けものたちもすべて、経験
の蓄積をもって生まれてきている、ということと、こ
れらすべての心中の活動は過去の経験の結果である、
ということはみとめます。「しかし」 と彼らはたずね
るのです、「その経験は魂のものである、ということ
が何の役に立つのか。それは肉体の経験だ、肉体だけ
のものである、と言ったらよいではないか、どうして
それは遺伝であると言わないのか」 と。これは最後の
質問です。どうして、私が持って生まれたすべての経
験は私の祖先たちの過去の経験の結果である、とは言
が肉体にのこることは理解します。しかし、肉体はこ
なごなにくだけるものであるのに、心の印象が肉体に
のこることができると仮定する、どんな証拠があるの
ですか。何がそれを、はこぶのですか。かりに、それ
ぞれの印象が肉体にのこるのが可能であったとして
も、最初の人間からはじまって私の父親にいたる、あ
らゆる印象が私の父親の肉体の中にあったとしても、
どのようにしてそれが私につたえられるものなので
しょうか。バイオプラズマ(注=胚原質。性細胞を形
成してつぎの代につたわるべき物質)的な細胞によっ
てですか。どうしてそんなことがあり得ましょう。父
親の肉体はそっくりそのまま子供につたえられるもの
ではありません。おなじ両親が何人かの子供を持つで
しょう。すると、印象と印象されたものとはひとつで
ある(つまり物質なのです)という遺伝の学説によれ
ば厳密に、子供が一人生まれるごとに両親は彼ら自身
の印象をうしなわなければならない、ということにな
ります。あるいは、もし両親が彼らの印象を全部つた
わないのか。小さな原形質から最高の人間にいたる、
経験の総計は私の中にある、しかしそれは遺伝という
コースをとって肉体から肉体へとつたえられてきたも
のである、と、こう言ってすこしもさしつかえないで
はないか。これは非常に結構な質問です。われわれも、
この遺伝説の一部はみとめます。どこまで? 材料を
供給するというところまでです。われわれは、自分の
過去の行為によって、ある種の肉体をとってある誕生
をするようになります。すると、ちょうどその肉体の
形成にふさわしい材料が、その魂をわが子とするにふ
さわしい両親からくるのです。
単純な遺伝学説は、何の証拠もないのに、心の経験
が物質に記録されるという、心の経験が物質の中につ
つみこまれるという、まったくあきれるような主張を、
当然のこととしておこなっています。私がみなさんを
見ると、私の心というみずうみの中に、一つの波がた
ちます。その波はひきます。しかしそれは、印象とい
う精妙な形でのこります。われわれは、物質的な印象
えるなら、最初の子供が生まれたあとで彼らの心はか
らっぽになるでしょう。
また、もしバイオプラズマ的な細胞にあらゆるとき
の無限量の印象がはいっているというのなら、それは
どこでどのようにしてですか。それはまったく不可能
な見解であって、それらの生理学者たちが、どこにど
のようにしてそれらの印象が細胞の中にふくまれて
いるのか、また心の印象が肉体の細胞の中にねむって
いるというのはどういうことであるのか、証明するこ
とができるまでは、彼らの見解を無条件に承認するわ
けには行きません。ですからいままでのところ、この
印象は心中にある、ということ、心はいくたびも生ま
れてきて自分にもっとも適した材料をもちいる、とい
うこと、そして、自分をある特定の種類の肉体にだけ
あうように形成した心は、その材料が得られるまでま
たなければならない、ということが、はっきりしまし
た。これは、われわれも理解します。すると当然、魂
に材料を提供する、ということに関しては遺伝的な伝
達がおこなわれる、ということになります。しかし魂
は、移動してつぎつぎと肉体をつくり、われわれが思
うすべての思い、われわれがおこなうすべての行為は
精妙な形でその中にたくわえられ、新しい形をつくろ
うとまちかまえているのです。私がみなさんを見れば、
私の心中に一つの波がおこります。それは、いわばし
ずんで、もっと精妙な形になるでしょう。しかしそれ
は死にません。それは記憶という形の波としてふたた
びあらわれようと待ちかまえています。そのようにし
て、これらすべての印象は私の心の中にあり、私が死
ぬと、それらの結果である力が、私に働きかけるでしょ
う。ここに一個のボールがあり、われわれの一人ひと
りが手に木づちを持っていて、四方八方からそのボー
ルをうつとします。ボールは部屋の中のあちこちにと
び、ドアのところに行くと、外にとびだします。それ
は何を持ち出しますか。これらすべての打撃の結果で
す。それが、このボールにとぶ方向をあたえるのです。
そのように、肉体が死ぬとき、何が魂をみちびきます
か。それがおこなったすべての働きの、それが思った
すべての思いの総計、その結果です。もしその結果が、
さらに経験をつむためにあらたな肉体をつくらなけれ
ばならない、という状態であれば、それは、その肉体
に適した材料を供給することのできる両親のところに
行くでしょう。このようにして肉体から肉体へと生ま
れかわり、ときには天国にゆき、また地上に生まれて
人となり、またはもっとひくい動物にもなるでしょう。
このようにしてそれは、経験を完了し循環をおえるま
で、生きつづけるのです。そうして、それは自分の本
性を知り、それが何であるかを知り、無知は消滅しま
す。それの力があらわれ、それは完全になります。そ
の魂にとってはもはや、肉体を通じてはたらく必要も
なく、精妙な、つまり心の体を通じてはたらく必要も
ありません。それはそれ自身の光をもって輝き、自由
であって、もはや生まれることもなく、もはや死ぬこ
ともないのです。
いまはこのことについてくわしくは、はなしますま
い。しかし私はみなさんの前に、この転生の学説に関
するもう一つのポイントを提示しようと思います。そ
れは、人の魂の自由を促進させる学説なのです。それ
は、人間に共通のあやまりである、自分のすべての弱
点を他人のせいにすることをしない、唯一の学説です。
われわれは自分のあやまちをみとめません。目は、彼
ら自体は見ません。それらはすべての他人の目を見ま
す。われわれ人間は、他の誰かのせいにすることがで
きるかぎりは、なかなか自分みずからの弱点をみとめよ
うとはしないのです。人びとは一般に人生のすべての
せめを仲間の人びとに、または、それができないと神
におわせ、または幽霊をこしらえて、これは運命だ、
と言います。どこに運命があるのですか。また誰が運
命なのですか。われわれは自分のまいた種をかるので
す。
他の誰をせめることもなければ、誰をはめること
もありません。風はふいています。帆をあげている舟
はそれをうけ、前にすすみますが、帆をまいている舟
はそれを受けません。それは風のおちどですか。慈悲
ぶかい父なる神の恩寵の風はやむことなくふいてお
り、そのなさけほおとろえることはない、われわれの
ある者が幸福であってある者が不幸であるのは、彼の
落度でしょうか。われわれが、自分の運命をつくるの
です。彼の太陽は、よわい者たちの上にもつよい者た
ちの上にも輝きます。彼の風は、聖者のためにも罪び
とのためにも、おなじようにふいています。彼は慈悲
ぶかく公平な、すべての者の主、すべての者の父であ
られるのです。みなさんはつくり主である彼が、われ
われの人生のちっぽけな事がらをわれわれが見るのと
おなじ見方でごらんになる、とおっしゃるのですか。
それはなんという堕落した、神の概念なのでしょう!
われわれは小さなあやつり人形のようなもの、ここ生
死の中で苦闘しつつ、おろかにも、神ご自身までが自
分たちとおなじようにまじめにそれととりくまれるで
あろう、と考えているのです。彼は、あやつり人形た
ちの芝居が何を意味するのか、ご存じです。彼が罰し
たり賞をあたえたりなさるのだと思って彼にせめをお
わせようとするわれわれのこころみは、おろかと言う
ほかはありません。彼は誰をも、罰しもなさらなけれ
ば、賞しもなさらないのです。彼の無限の慈悲は、あ
らゆる人に、いかなるときにも、あらゆるところで、
どんな条件のもとででも、確実に不断に、自由にあた
えられています。どのようにそれをもちいるかは、わ
れわれ次第なのです。どのようにそれを活用するかは、
われわれ自身にかかっているのです。人も神も、この
世界の何ものをもせめてはなりません。自分が苦しん
でいるのを見たら、自分をおせめなさい。そして向上
するよう努力なさい。
これが、難問の唯一の解決法です。他者をせめる人
びとは ー また、ああ! 彼らの数は日々にふえつつ
ある ー 一般に頭脳がたよりないから不幸なのです。
彼らは自分のあやまりでそのようなはめにおちいった
のに他者をせめるのですが、これは彼らの境遇をかえ
はしません。それはいかなる形ででも、彼らのために
はなりません。他者にせめをおわせようとするこのこ
ころみは、ただ彼らをいっそうよわくするだけです。
ですから、自分の過失に関しては、誰をせめてもいけ
ません。自分の足でお立ちなさい。そして自分が、全
責任をおとりなさい。「私が苦しんでいるこの不幸は、
私がまねいたものだ。そしてこの事実は、私だけがそ
れを解消させることができるのだ、ということを証明
している」 とおっしゃい。
私がつくったものは、私が
こわすことができます。他の誰かがつくったものは、
決して私がこわすことはできないでしょう。ですから、
立ちあがって、大胆に、つよくおなりなさい。全責任
すべての力と援軍は、あなた自身のうちにあるのです。
ですから、自分の未来をおつくりなさい。「死んだ者
たちに死者を葬らせよ」無限の未来が、みなさんの前
にあるのです。そしてみなさんは、ひとつひとつの言
葉、思い、およびおこないが自分のために一つのたく
わえをつくりつつあるのだということを、そしてわる
い思いとわるい行為がトラのようにとびかかろうと身
がまえているのだということを、それと同様に、よい
思いとよい行為は百千の天使たちの力をもってつねに
永久に自分をまもろうとしているという、はげましに
、みちた希望もあるのだということを、つねにおぼえて
いなければなりません。