【私の根本姿勢】



衆生劫(コウ)尽きて、大火に焼かるると見る時も、

我が此の浄土は安穏にして、天人は常に充満せり

妙法蓮華経如来寿量品第十六

 

神の国はあなたのただ中にある

 ルカ福音書17章20-21節 イザヤ書17章

 

あなたは映画の映像ではない、映画のスクリーンの

映像を見ている人である!!

ラマナ・マハリシ

 

空の空、空の空、いっさいは空である。

旧約聖書 伝道の書1章2


色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。

仏説摩訶般若波羅密多心経


夫れ、人の心は天照大御神の御分心にして我の心に非

ざれば、人の心を傷むるとは天の心を傷むるなり、

人の心を育てるとは天の心を育てるなり。


立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を移してや見ん

神道 黒住宗忠

 

見るものは見られるものである、観察者は観察され

るものである。

思考なく、私なくあるがままをあるがままに見よ。

思考者はいない、思考があるだけだ。

行為者はいない、行為があるだけだ。

J・クリシュナムルティー


(あなたはその映画を見ている観照者である)自己を想起すること!

自己を想起することが真我実現を齎らすのだ!!

ニサルガダッタ・マハラジ

 

神は全ての人の中にいます。

もしこのことを実感として分かれば

私達は全ての人々を抱きしめるでしょう

・・影としての現れが何であれ。

その現在のパーソナリティーが何を現して

いようとも私達は神を見ているのです。

・・エレブナ

 

 

 

私の感想

これらは人類のレベルを遙かに凌駕している高次の意識からの

福音であります。此岸にいる私達には推測も想像も理解も出来

ない彼岸からの言葉であります。この言葉は考えや意見や思想

や哲学ではなくて「事実」「真理」の叙述なのであります。

私達は自分のレベル、自分のレベルが持つ知覚認識内で自

分の内部と世界を見ており、何ら
この知覚認識を疑うこと

がありませんし、私達はこの脳による知覚認識以外に高次

な知覚認識があるということを知りません。


この知覚認識
を私自身だと実感し、それと完全に一体化し

ております。知覚認識される思考や行為のことを「ただ

見る」事は到底難しくて私達はそれを知りません。


現在の人類の文化はこの条件付けられた脳が齎󠄃している結果

であり、その思考と感情の文化であり、それを基準とした社会で

あり、国家であり、民主主義などの思想による民意とはこの脳が

齎している恐怖と利己主義と競争心を基盤にしています。


常識では、私達は考えや感覚とか感情は勿論当然のこととし

て、自分が感じて、自分が考えて、自分が決めて、自分が

生きており、自分が内部と世界を知覚認識していると・・・

そのように思われています。

この思いや、この考えや、この思いや、このフィーリングや

見ている目とは自分だと・・誰もがそう思っています。


しかし、心臓や呼吸やあらゆる器官が大生命によって生き

ているように、
この知覚認識も私のものではなく、私が為して

いるのでもなく、その全く逆にこの私とは脳のシステムによって

生じている大生命のものであり、その大生命が私として生

きておられます。その脳のシステムが生み出した思考や感

情や欲望や感覚や想念の記憶・・・その記憶が反応して


じ、考え、思い、見て、聞いており、その記憶からの反応

としてさらに選択や行為などがおこっているのではないで

しょうか。



そして魂と繋がる私はこの神聖なる肉体に入り記憶と全

く一体化してしまっているのです
と。


この「記憶である私」は、私達ではなくて私達の潜在意識に

ある記憶が記憶自身の思考と感情を実感し自らを知覚認識し

て主体即ち私だと思っているのですと。


魂と繋がる私はこの記憶に覆われ包まれ一体化しているので

私達は記憶の奴隷で自由がないので、まったくその自覚

や認識がありません。・・。

私達が見て感じている内部と外部の世界とは、実は私達が見

て感じているのではなくて記憶が感覚器官を占有しており記

憶が見て、記憶が感じて、記憶が知覚認識しているのであり

ます。この私とは記憶
なのですと。実はこの表面意識

で私と言っているのはこの記憶のことなのですと。彼岸に至

らない限りは、この私とは記憶なのでありましょう。


そして

私達はその記憶と完全に一体化してしまった結果として、

私達はあるがままを知覚認識しているのではなく、記憶の

解釈、記憶の知覚によって歪曲されてしまっている記憶に

よる世界、記憶が見ている外部と内部を見ているのですと。

私達が知覚しているのは記憶の中であり、それを見ている

ものもまた、記憶の私なの
でありましょう

記憶が見ているように自分を肉体だと錯覚しています。

記憶が思うように相手は自分なのに相手を非難します。

記憶が見ているように世界と自分は分離していると錯覚しています。


このように覚者方の目から見た場合には、

自分の知覚認識だと思われているこの知覚認識とは、私

の知覚認識ではなくて
記憶による記憶の知覚認識なのです。

 

私達はこの錯誤を何ら疑うことなく、自分が自分の内部や

世界のことを知覚し見て、聞いて、判断し、行為している

とその様におもっています。


その知覚認識している私は私だと誰もがその様におもっています

けれども、実は世界や自分自身
のことを見ているのは私で

はなく「私という観念」の記憶
なのだということなのです。


記憶が見て、記憶が聞いて、記憶が感じて、記憶が判断し

て、記憶が行
為しているのです。起こっている行為や思考を

見て反応しているのは記
憶なのです。ですから私達が見て

いるあるがままとはあるがままではなくて記憶が見ている

記憶によるあるがままを歪曲した姿を見ているのです。


世界や相手や私、それを対象として知覚認識している「私」

とは本当の私ではなくて、それは記憶であると言うのです。


その記憶による記憶の知覚認識を私達は自分の知覚認識だ

と思い込んでいるのです。私達は毎日、記憶の世界にいて

記憶の世界を知覚認識しており、当然のことながら自分は

神の子であることに全く気がついていません。


そしてその「私という観念の私」は、自分の姿を他者の鏡

に投影して、自分の事を他者として知覚認識しているので、

相手を非難し、自分を恐れ、自分から逃避し、自分を憎ん

でいます。恐怖と憎悪と苦悩と競争心と支配欲、利己心で

構成され常時活動しているこの我・エゴ・私がこの人生で

成功と自己の存続と自己実現を望んで一生懸命に生きています。


相手を変えようとし、世界を良くしようとしているその相手

も社会も世界もそしてその自分自身も記憶に他なりません。



この記憶であるエゴ・私は、常に他者を支配し利用し自他を

愛することを知りません。そしてそのエゴが自分の中に、他

人の中にエゴを発見しエゴを非難しますが、そのエゴを知覚し

非難している自分自身がエゴなのです。エゴが自己・エゴを変

えようと努力し藻掻くのです。・・決して愛することなく・・。


なので「見るものは見られるものである」なのであり、自我

を自我として知覚認識してその自我を何とか変えようとして

いるものこそが、その自我本人であることを自我・エゴは知覚

できないのです。



世界の中に、私の中に、相手の中に自我を見ているものこそ、

その自我であるのです。その自我とは恐怖そのものであり、恐

怖を見ているものが恐怖なのです。恐怖が恐怖を知覚して恐

怖を終熄させようとしているのです。



そしてその自我エゴとは私達の潜在意識に生きているものです。

 

そういうわけで

私達の現在意識とは条件付けられている記憶・エゴと意識との

合・坩堝状態なのであります。


その恐怖・エゴがあるのも神の子の私がそこにいるからで在ります。

思考がある事が出来るのも、そこには意識・空があるからであります。

 

本当の私はそれら起こっている思考や感情ではなく、また

肉体や諸体ではなくて意識・空そのものなのですといわれてい

ます。



意識は光であり、鏡であり、空であり・空間であり、愛であり、

いのちであり、ただ見る事であり、
見ることが秩序を齎󠄃す

のだと教えられております。



私達はそれら、条件付けられている脳からの記憶ではなく、記憶

からの思考や感情ではなく、それらを見ている「目」であり、「見」

であり、意識であり、鏡であり、空であり、金剛不壊なる空間であり

スクリーンであり、「愛」であり、「感謝」であり、「コトバ」であり、大生

命なのですと、即ち「霊」「天照らす御祖の神の子」なのです、と教え

られています。



本当の私は主体と対象の区別がない意識そのもの、愛その

もの
なのですと。本当の私とは「一霊四魂」の一霊であり、


ハートの中心にある真我であり、「私の中に万物があり、

万物の中に私が在る全体であり」、無限空間即ち空であり、

自我が全く存在しない空(思考のない空、自我のない無)

であり、全てを生かし支えている大生命であると言われて

いる時空を超えている意識であると教えられております。



即ち本当の私達とは黒住宗忠のいう天照大御神の御分霊

なのでありましょう。「色即是空」の空でありましょう。



現在の表面意識には到底理解出来ない未知なるこの真の

私を覆い隠している私・・・この私とは映像の私です。


映像の私とは、魂と繋がる私(意識)を覆い隠している記憶

の私です。

この映像の私は内部と外部を知覚認識している私でも

あり、映画のスクリーン上に投影され登場している「私

(記憶の私)」という映像なのでありますと。


この映像の私が思考し行為し、暴力的で、その記憶の

私を魂と繋がる私が一体化してしまいカルマを生み出し

続けております。


ですから起こっている事の全て、苦しみや病気や殺戮の

責任はこの、それを知覚認識している記憶の私と自己同

一化してしまった「魂と繋がる私」にあるの
でありまし

ょう。


目の前の相手は私の潜在意識にある記憶の私であり、そ

して記憶の私は「魂と繋がる私」の責任なのです。


非難し、変革しようとしている社会や世界とは私の姿

であり私の責任なのですと。
外部は内部であり内部は

全てに拡がる空であり、至高の愛である。


従ってこの表面意識で知覚認識している私とは思考な

く映画を見ているわたし(観照者)なのではありません。


この私とは、黒住宗忠のいう天照大御神の御分霊

である私が、誤って同一化してしまっている「記憶の

私」「我の心」なのであります。


聖賢の方々はその自分と世界を知覚認識している私

こそ映画のスクリーン上で演じられている私であり、

その映像の私(即ち知覚認識している私)とは映画を

思考なく見ている本当のわたし(観照者)なのでは

ないと言われております。



本当の私とはその演じられ
ている私を、抱きしめ、

愛し観ている観照者の私なの
だと言われております。

だからこそ、私達は自分を抱きしめ、許し、お詫びし、愛を

注ぎ、感謝しなければなりません。


映画の中の主人公である私・・それらは心の中で繰り広げら

れている映画の映像なのです・・それは神聖なるマーヤか

らの映像なので
すと賢者は言われております。



映画では私が行為し、病気
になったり、怒ったり、好きに

なったり嫌いになったり、欲
望が荒れ狂い、成功したり失

敗したり、成長したり、堕落し
たり殺したり、殺されたり

、死んだり生まれたりしながらあ
らゆる出来事が続いてお

ります。



カルマによって寸部の狂いもなく決められている出来事が起

こり、それに対して記憶が反応し行為と思考が起こっていま

す。その起こっている事の全ては「記憶の私」即ちこの知覚

認識している「真の私を覆い隠している私」なのであり、

その私の責任は、その記憶と一体化しているこの魂と繋が

る私にあります。


しかしながら「本当の私」とは、この知覚している記憶の私

にとっては未知の私であります。


未知なる本当の私とは「映画の中の主人公の私」を観照して

いる私なのです!!

この表面意識によって知覚されている私のことではありませ

んと。

本当の私とは、映画のなかの「私という主人公」ではないの

です、といわ
れております。私は思考なく映画を観ている観

照者なのですと。



ですので

その観照者の私即ち本当の私の事を常に自己想起しなさい!と。



私は天照大御神の御分心なのですと。私は無限に拡がる意識な

のです。と、ですのでその真の私をいつも思い出しなさいと。



聖賢の方は「あなたは思考に塗れていても思考ではなく意識

であるから”思考なく見なさい”」「あなたは空で在り、無限に

拡がっている意識(無限なる霊)なのですと言われているの

です。あなたは万物一切なのですと言われているのです。


「あなたには思考なく見ることが出来る可能性があるのだ」と

言われております。恩寵がそれを齎すと言われております。


あなたは「自分は映画の主人公だと錯覚する私という観念の私」

ではありません。あなたはその私という観念の私を観照してい

る私なので
すと。



ですからその思考の私を非難したり、思考である欲望や恐怖か

ら逃避
したり、それらと一体化するのではなくて、

(それは思考の動きです)

その想念・思考・感情・欲望・恐怖・動機・願望・目的・行為

である私のことを抱きしめ感謝と愛を捧げなさいと教えられて

おります。その私のことを愛し、供養し、感謝しなさいと。

仏典や聖書や聖者はそのように私達に道を示しておられます。

・・・これは常識的な考えではありませんし、非常に混み入り

複雑な「魂と繋がる私」とそれを「覆い隠している私」に関

する私の考察です。



私達には自己想起と自己観察を同時に常時実践することが

一番肝要なことでありましょう。勿論自己想起とは、本当

の自分である神の子へ意識を合わせることでありましょう。




※共通の祈り

「願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生皆共

に仏道を成ぜんことを。」(仏教)


「みこころが天にありますように、地にもあらしめ給え」(キリスト教)


「祓い給い、浄め給え、神ながらに守り給い、さきはえ給え」(神道)